1. キリストの救済論、何が問題か

 

 

人はイエス救い主と信じれば救われる。これは聖書がえる基本理だ。

 

(使徒 16・31) 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 

(ヨハネ 3・16) 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

「救い」と「永遠の命」は同じ意味だ。

「イエスを信じれば救われる。」

「イエスを信じれば永遠の命を得る。」

 

聖書を見れば、イエスが「永遠の命」という言葉をたくさん使ったのに対し、使徒たちは「救い」という言葉を多く使っていたことが分かる。

 

(ヨハネ 6・40) 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。 わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

 

(使徒 4・12) この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

 

者たちは、人がイエスを信じて魂が生まれ変わるのを「新生」という。は新生したクリスチャンが、自分の救いを確信することを助けるために聖書を記して下さった。

 

(第一ヨハネ 5・13) 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 

本文の「神の御子の名を信じているあなたがた」は「イエス救い主として信じて魂の救いを受けたクリスチャン」を意味する。したがって本文は「新生したクリスチャンが魂の救いを受けたのを確信させるために聖書(ヨハネの手紙)を記した」という意味である。

したがって、新生したクリスチャンは聖書を勉して自分が魂の救いを受けたことを確信していくのが、正常的な信仰生活であると筆者は考える。

 

だが、現はそうではない。念ながら多くのクリスチャンが自分が魂の救いを受けたのを確信できなくて苦しんでいる。このような理由により、あるクリスチャンは自分が救われなかったと絶望して教会生活をあきらめた場合もある。あるクリスチャンは救いの確信を得るためにあちこち他の教会を探して異端の教会に行ってしまった場合もある。あるクリスチャンは自分の救いに対する確信を持つことができなくて病にかかった場合もある。またあるクリスチャンは自分の救いの確信を完全に失って自殺をはかる場合もある。

 

あるクリスチャンが救いの確信を得るためにあちこちへ聖書の勉をしに行き、そうするうちに異端に陥って苦しんでいた。彼は筆者の救済論に接して、長いさまよいからけ出すことができた。彼は筆者が住んでいる大田市までに訪ねて来て筆者と話を交わした。

 

あるクリスチャンは『地獄へ行くクリスチャン』のような、行いによる救済論を主張する本をんだ後に、地獄の恐怖に苦しめられた。念ながら彼の息子は、自分の救いに確信がなくて絶望してうつ病にかかってしまった。結局、彼の息子は信仰生活をあきらめた。そのクリスチャンは、筆者の救済論を通して救いの確信を得ることができた。彼は、彼の息子に自分が間違った救済論をえたことを謝罪した。

 

本書を通して救いの確信を得たあるクリスチャンは次のような、ぞっとする話を聞かせてくれた。

 

「私の知っている、ある牧師先生の息子が道師であるのにもかかわらず、ある日あやまって姦淫の罪を犯しました。この事実が分かって怒った父親牧師は息子の道師に『おまえはそれほど大きな罪を犯したから地獄に落ちるしかない』と言いました。これを聞いて大きな衝を受けた息子の道師は絶望に陥って自殺をしました。するとお父さんの牧師先生も息子の伝道師の後を追うように自殺をしました。その牧師先生道師がイファヨン先生の本をんだならば、二人は自殺しなかったと思います。」

 

筆者は多くのクリスチャンたちに救いの確信を持っているかどうかを調査した。彼らのほとんどは初め、アンケート用紙に「私は救いの確信がある」と書く。だが、筆者が彼らに「兄弟に向かって『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」、だれでも情欲をいだいて女を見る者は地獄に落ちる」、「行いのない信仰では救われることができない」、「恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい」、「天におられるわたしの父のみこころを行なう者が天国にはいるのです」、「一度光に照らされた者が墮落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」など、救済論の難解の聖書箇所を提示しながら「このような御言葉をんだら、どんながしますか」と尋ねると、彼らの90パセント以上の人が「このような御言葉をめば、救いの確信がれる」と答えた。

 

中世のカトリック教会免罪符を発行し、それを買う人は天国へ行くと宣伝し、教会の信者たちはそれを買うことで救いの確信を得ようとした。免罪符は宗改革によって消えてしまった。免罪符は、聖書がえる救いを明確に悟ることができなくて生じた間違いである

 

一方、キリストの2大救済論者、すなわち、カルビン主義者とアルミニウス主義者は「山上の教訓を守りなさい。そうすれば天国へ行ける」と方する。

 

ビョンスンウ牧師は次のように主張した。

「信念を持って山上の教訓をそのまま行う者は永遠の命を得るけど、山上の教訓を行なわない者は滅亡するでしょう。」

 

クォンヨンギョン授は次のように主張した。

 

「イエスは最後の審判の日には『わたしに向かって、主よ、主よ、と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいる』ということを明確に宣言した(マタイ 7・21)。どんなに印象的な業績を積んだように見えても「父のみこころ」でない時、それはただ「不法」に過ぎない(7・23)。すなわち天国に入るのは私たちがイエスの御言葉を聞いてそれを行うか行わないかに掛かっている。」

 

筆者が本書を通して十分に明しようと思うが、このような主張は聖書を誤解した結論である。けれども今の多くのクリスチャンたちはこのような主張を理として信じている。このために多くのクリスチャンが地獄の恐怖に震えている。その結果多くの悲劇が起こるのである念なことである。

 

どうすれば私たちがれない救いの確信を得ることができるだろうか

新生したクリスチャンがの救いの確信を得ようとするなら、まず、はじめにイエスが使っていた「永遠の命」という言葉の意味を正確に分からなければならない。

 

その理由の一つ目はイエスが永遠の命という言葉と救いという言葉を同じ意味で使ったからであり、二番目の理由は永遠の命という言葉が救いを最も明確に明するからだ。

不幸にも使徒時代以来、今まで多くのキリスト教の者たちは永遠の命を明確に究しないまま、救済論に関する聖書の難解箇所を無理に解して救済論を作った。また、一部の神者は永遠の命の意味を明確に分かっていても、救済論に関する聖書の難解箇所を解釈できなくて永遠の命を正しくえることができなかった。このために聖書がえていない行いによる救済論がキリストを支配することになったのだ。

それで、多くのクリスチャンが地獄の恐怖に苦しめられることになったり、救いの確信を得ることができなかった信者が信仰生活をあきらめたり、異端の誘惑にったり、精神病で苦しめられたり、自殺を図ったりするのだ

 

「永遠の命」という言葉を考えてみよう

新約聖書に使われたギリシャ語「永遠」は「限りない時間」を意味する。

デラックス・バイブル聖書典は新約聖書に使われたギリシャ語「永遠」を次のように明した。

「聖書で言う永遠の命とは、キリストによって与えられる永遠の生命を言う(ヨハネ 3・16)。…永遠の命とは、人間がキリストを信じて神との新しい係に入ることだ(ヨハネ 17・3、ローマ 5・21)。…そしてこの命は永遠にくものだ(第一ヨハネ 2・17)」。

デラックス・バイブル聖書典が明したように「永遠」は「限りなく続くこと」を意味し、「永遠の命」は「神との新しい係に入って、永遠に生きる命」を意味する。

 

一方、天国へ行った人も永遠に生きて、地獄へ行った人も永遠に生きる。このためにイエスは天国へ行って幸せに永遠に生きることを「永遠の命」と言われたし、地獄へ行って不幸に永遠に生きることを「永遠の刑罰」と言われた(マタイ 25・46)

 

人はいつ永遠の命を得るのか? 次の聖書の箇所を見ればすぐ分かる

 

(ヨハネ 3・16) 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

(使徒 16・31) 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 

上の聖書の箇所を見れば、人がイエスを信じる時(人がイエスを信じる瞬間に)、永遠の命(救い)を得ることが分かる。

 

イギリスの有名な説教者チャルズ・スポルジョン牧師は、人がイエスを信じる時、永遠の命を得ることを次のように証言した。

「救いの道は簡す。その方法は純です。もし、皆さんが信じさえすれば、その瞬間に救われることになるのです。」

 

人はどのように永遠の命を得るのか? これも聖書に明白に明されている。

 

(エペソ 2・8~9) あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 

上の聖書箇所を具体的に討してみれば、人が永遠の命を得る方法を明確に知ることが出来る。

 

本文の「恵み」は「神様の恵み」を意味する。本文の「恵み」は「受ける側の努力と係なく、与える側の思うまま与える贈り物」を意味する。新生したクリスチャンが得た魂の救い(永遠の命)は100パセント神が恵みで下さったものなので使徒パウロは「救いは神の賜物」だと表現したのである。

 

救い100パセント神の贈り物として授けられたものだから、人の善行は、魂が救われるのに少しも影響を及ぼすことができない。このために使徒パウロが「行ないによるのではありません」と言う時に、ギリシャ語の絶対否定副詞「ウ」を使った。絶対否定副詞「ウ」は絶的な不正を表現する時に使う単語だ。

 

使徒パウロは、人間の善行が救われるために何の役にも立たない理由を次のように明した。だれも誇ることのないためです。」

 

救われた人が「私が善良に生きたので救われた」と自慢したり、「私が善行を加えたから神が私を救って下さった」と自慢しないように、神は絶に人間の善行で救われないようにし、ただ信仰で(ただ恵み)救われるようにしたのだ

 

使徒パウロはロマ人への手紙を通しても人が行いではなく信仰によって(ただ神の恵みで)魂の救いを受けることを明白に話した。

 

(ローマ 4・2~3) もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

 

人がイエスを信じるその時永遠の命を得るというのは、イエスが明白にえて下さった事だ。

 

新生したクリスチャンはイエスを信じて10年ほど過ぎてから救われるのではなく、死ぬ時に救われることでもない。新生したクリスチャンはすでに救われたし、永遠に救われている。新生したクリスチャンはイエスを信じる時から永遠に、絶に地獄へ行かない存在になった。新生したクリスチャンが自分の魂の救いのためにすべき仕事は何もない。これが聖書の明らかなえだ

イエスは新生したクリスチャンが永遠に地獄へ行かない命(永遠の命)を持っている事を次のように宣言なさった。

 

(ヨハネ 6・47) まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。

 

本文の「持ちます」は現在形の動詞だ。本文は「イエス救い主として信じる人は現在、永遠の命を持っている」という意味だ。

 

ヘンドリックス博士が本文を正しく解したと思う。

「信者はすでに永遠の命を持っているということ、即ち、今ここで持っているということを注目しよう。」

 

万一、者であるあなたが過去のある時点に、イエスを信じなかった罪を心より悔い改めた後に「罪のないイエスが私の罪を担って私の身代わりをして十字架で死なれた」と信じるなら、その瞬間に魂の救いを受けたのだ。あなたが真面目に生きたか、不道に生きたかは関係なく、あなたはその時に魂の救い(永遠の命)を得たのだ。また、あなたはその時に永遠に地獄へ行かない存在になったのだあなたがイエスを信じた日を分からなくても、あなたが永遠の命の証しを持っていなくても、あなたはまちがいなくその時に魂の救いを受けたのだ。言い換えれば、その時あなたは永遠に天で生きる命を得たのだ。また、その時からあなたの魂はイエスと一つになって今、天で生きているのだ

 

イエスが「新生した信者(永遠の命を得た信者)は地獄へ行かない」と言われた時に使ったギリシャ語を分析してみれば、新生したクリスチャンが絶に地獄へ行かないことをより一層明らかに知ることが出

 

1、イエスはギリシャ語の絶対否定副詞「ウ」を使って、新生したクリスチャンが絶に地獄へ行かないことを宣言された。

 

(ヨハネ 10・28~29) わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

 

本文の「彼ら」は「イエスを信じて永遠の命を得た人」を意味する。本文の「ありません」のギリシャ語が絶対否定副詞「ウ」だ。

例外がまったくないことではないが聖書に使われたヘブル語「ウ」は基本的に絶対否定を意味する。

 

本文は「イエスの手から、新生したクリスチャンを奪って地獄へ引っ張っていく者は絶にない」という意味だ。誰が全能な神の手から新生したクリスチャンを奪い去ることができようか? イエスは絶対否定副詞「ウ」を使って、新生したクリスチャンが絶に地獄へ行かない理を明白に宣言された

 

2、 イエスは絶対否定を調するギリシャ語「ウメ」を使って、新生したクリスチャンが絶に地獄へ行かない理を宣言された

 

(ヨハネ 10・28) わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく

 

本文の「ことがなく」のギリシャ語が「ウメ」だ。聖書には「ウメ」が絶対否定調する時だけ使われた。日本語の聖書では「ウメ」が「決して・・・ない」と翻されている。

 

(ヨハネ 6・35) イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく(ウメ)、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 

(ヨハネ 6・37) 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません(ウメ)

 

(ヨハネ 10・28) わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく(ウメ)

 

「ウメ」のこのような用法を見る時、イエスが「ウメ」を使って「永遠の命を得た人は永遠に滅亡しないことで(ウメ)」と言われたのが「永遠の命を得た人は絶に地獄へ行かない」という意味であることを明確に知ることが出るではないか? 神の御言葉を「永遠の命を得たクリスチャンも地獄へ行きうる」と解する可能性が0.1パセントでもあるのか?そのような可能性が全くないのではないか?

 

今まで調べたイエスの御言葉を合してみよう。

イエスは、新生したクリスチャンが絶に地獄へ行かないことを多角的に宣言された。イエスは「永遠の命」という言葉と絶対否定副詞「ウ」と絶対否定を調する「ウメ」を使って、新生したクリスチャンが絶に地獄へ行かないことを、誰も疑うことが出来ないほど力に宣言なさった。

 

イエスの御言葉をよく考えてみなさい。神の御言葉に「新生したクリスチャンも地獄へ行きうる」と解する可能性が0.1パセントでもあるのか? 神の御言葉にはそのような可能性が0.00001パセントもないのではないのか? それでもカトリック神学者とアルミニウス主義者たちは「新生したクリスチャンも地獄へ行きうる」と主張している。あきれたことではないか。

 

万一、新生したクリスチャンが地獄へ行くことが起こるのが事であれば、かなり重大な問題が生する。

 

最初に、もし新生したクリスチャンが地獄へ行くことが起こるという話が事実であれば、イエスは頭がい詐欺師か、詭弁家になるしかない。

もし、イエスが頭のい詐欺師、あるいは詭弁家だったら、イエスは、新生したクリスチャンに一時的な命をえたのに「私があなたに永遠の命をえた」とをついたことになる。

 

二番目、もし、新生したクリスチャンが地獄へ行く場合もあるのが事であれば、聖書は地上最大の嘘の本になるほかない。聖書に「新生したクリスチャンは永遠の命を持つ」と明確に記されているからだ。

 

新生したクリスチャンがまだ救いを受けることができないのが事だとすれば、これも非常に深刻な問題が生する。

 

万一、新生したクリスチャンが救いを受けることができないのが事ならば、イエスは頭がい詐欺師になるか、頭がい詭弁家になるしかなくて、聖書は本になるほかない。イエスが「新生したクリスチャンはすでに救いを受けたし、永遠に救いを受けた」と宣言されたからで、聖書も同じ事えているからだ。

 

新生したクリスチャンが地獄へ行く確率は0.00001パセントもない。新生したクリスチャンが地獄へ行くことより象が針の穴に入ることがさらに容易だろう。新生したクリスチャンが地獄へ行くことは永遠に不可能なことだ。したがって永遠に地獄へ行かない永遠の命を持っているクリスチャンが地獄の恐怖に震えるのは、昔の中、杞という国のある人物の、空が崩れて、地面がへこむのではないかと心配したという話より一層大きい杞憂にならざるをえない。わたしたちクリスチャンはもうこのような優から抜け出すべきではないだろうか

 

恐らくキリスト3大救済論者(カトリック神学者、アルミニウス主義者、カルビン主義者)は次のように抗弁したいだろう。

「私たちが行いによる救済論えるので、多くのクリスチャンが地獄へ行かないために熱心に信仰生活をするのではないか? 恵みによる救済論者が100パセントの恵みにより救われるのをえるので人が自分勝手に生きるのではないか? だから私たちが正しい。」

 

だが、神は必ず彼らを叱責されるだろう。

 

「君が行いによる救いをえたから、多くのクリスチャンがつまずいているのを分からないのか? 君がえた、行いによる救済論のために多くのクリスチャンがを落として信仰生活を中して、精神病にかかって、異端にって、自殺したことを分からないのか? その責任を誰が負うか? そしてなぜ君は、私がえた方法でクリスチャンを励まし、忠誠をつくすようにしないのか?」

 

人間も賢明な親は、子供を極端な言葉で脅迫して教育しない。言い換えれば、賢明な親は子供に、「いことをたくさんすれば家から追い出す」と脅迫をしたりしない。子供に極端な言葉で脅迫すれば、心が弱い子供はつまずいて家出をしたり、精神病にかかったり、自殺をする可能性が高いのを知っているからだ。

賢い親は子供を教育する時、絶に極端な話をしない。彼らは子供がどんなことをしても絶に子供を見捨てないことをえた後に、賢い方法で子供に忠誠を要求する。 彼らが使う方法は叱り、懲らしめ、施賞などがある。

人間の親も賢い方法で子供を教育するのに、まして無限に賢い神がクリスチャンを極端な言葉で脅迫して、弱いクリスチャンをつまずきに陥らせるようなことをするわけがあるだろうか

 

は新生したクリスチャンを絶に地獄へ送らないことを十分にえた後にクリスチャンに忠誠を要求される。然のことだが聖書には神がクリスチャンを極端な言葉で脅迫して忠誠をつくすようにさせた記は全くない。が救済論に関する聖書の難解箇所を誤解しただけのことだ。

 

は新生したクリスチャンに次のような理由をげて神に忠誠をつくすことを命令される。

 

最初に、魂の救いの恵みに感謝して忠誠をつくしなさい。

二番目、子供としもべの義務にしたがって忠誠をつくしなさい。

三番目、祝福を受けたければ忠誠をつくしなさい。

四番目、賞を受けたければ忠誠をつくしなさい。

五番目、むちで打たれたくなければ(呪い受けたくなければ)忠誠をつくしなさい。

六番目、賞を失いたくなければ忠誠をつくしなさい。

 

一方、教会に通う人の中でも「魂の救い」を受けていない人もたくさんいる。聖書知識を持っているだけで、心からイエス様を信じていない。このような信仰では決して魂の救いを受けることはできないのだ。

 

に魂の救いを受けるためには、心よりイエスを信じなかった罪を悔い改めて(マタイ4・17)、心からイエスを信じて(受け入れて)(ヨハネ 1・12)、口でイエスを救い主として告白しなければならない(ローマ 10・10)

 

人が必ずイエス救い主と信じてこそ救いを受ける理由は何だろう

 

最初に、創造主なる神が、ただイエスだけを救い主として立てられたので、人は必ずイエス救い主と信じてこそ救いを受ける。

 

(使徒 4・12) この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

 

二番目、イエスは王で、王を認めない人は、どんなに誠に生きても反逆者なので、人は必ずイエス救い主と信じてこそ救いを受ける。

 

王を認めない人は王を認める人よりもっと誠に生きても王の敵(反逆者)で、王を認める人は王を認めない人よりもっと不道に生きても王の民である。

 

と人の同じだ。ある人が他の罪は清算したとしても、イエスを信じなければ、神はその人を神の敵(罪人)と見なされる。反面、ある人が、自分が犯した罪は算できなくても、イエスを信じなかった罪を悔い改めてからイエスを信じれば、神はその人を神の子供(義人)として取り扱われる。だから、人が魂の救いを受けるためには必ずイエスを信じなかった罪を悔い改めてからイエス救い主として信じなければならない。ここで、あなたが自分の信仰を点してみる必要があると思う。

 

今までの話を整理してみよう。

 

人は100パセント神の恵みで(ただ信仰)魂の救いを受ける。は、人が自分が救われたことを自慢しないように魂の救いを贈り物として下さる。けれども、使徒ヤコブは「行いのない信仰では救われることはできない」と宣言した。ヘブル人への手紙の記者は、「一度光に照らされた者が墮落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできない」と宣言した。

 

使徒パウロは、「恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい」と命令した。イエス、「天におられるわたしの父のみこころを行なう者が(天国に)はいるのです」宣言された。いったいこのような御言葉をどのように解すれば良いのか?

結論から言えば、行いによる救いをえているように見える聖書箇所は全く違う意味を持っている。が筆者に、この真理を明確にえて下さった。者たちはこの本をんでいく間、救いにする誤解と疑問がすがすがしく解けるのを感じるだろう。本書を通して、キリストの救済論においてコペルニクス的転回を経験するだろう

 

筆者は次の章で神の恵みによって、ヤコブの手紙2章14節、すなわち「行いのない信仰では救いを受けることはできない」という御言葉を解するだろう。あなたは次の章めば聖書が教える救いに目が開かれると思う