2. 行いのない信仰では救いを受けることができないのか

 

 

クリスチャンが救いの確信を持つことができない、もう一つの重要な理由は、聖書の記者が「救い」という言葉を色な用途で使ったことを分からないからだ。

 

ヤコブの手紙2章14節を例としてあげる。

 

(ヤコブ 2・14) 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

 

本文に「救い」という言葉が出てくる。多くのクリスチャンは本文の「救い」を「魂の救い」だと理解する。このために一部の人々は、本文を根として「行いのない信仰を持っている人は全部、のクリスチャンだから救われない、地獄へ行く」、「本物のクリスチャンも行いがなければ地獄へ行く」と主張する。

 

グランド合注は本文を根に次のように主張した。

 

「ヤコブの手紙は人が義と認められるためには信仰だけでなく、行も必要だということを主張している。しかし、人間の救いが神の恵みとしてえられる信仰の他に人間の行が付け加えられなければならないという神人協力の根にはならない。ヤコブはただの信仰には行いが必ず伴うことを調している。」

 

ビョンスンウ牧師は本文を根に次の通り主張した。

 

行いのない信仰がその人を救うことができるでしょう(ヤコブ 2・14)。私たちが信仰で救いを受けることが確なように、御言葉通り生活しない者が天国へ入ることができないこともやはり確です。この2つは聖書に明確に啓示されている、否定できない理です。」

 

だが、本文の「救い」をそのように解釈しない人もいる。R・T・ケンダル博士がその一人である。R・T・ケンダル博士は、イギリスの最も有名な長老教会であるウェストミンスタ長老教会のロイド・ジョンス牧師の後任として、その教会の担任牧師を25年間担任した改革派牧師だ。ケンダル牧師は「行いによって義と認められる」というヤコブの陳述は救い(魂の救い)する内容ではない」と言った。彼の著書『一度の救いは永遠だ』は1する値がある。

 

ヤコブの手紙2章14節の「救い」を正しく解するためには、聖書記者が「救い」という言葉をどんな用途で使ったかを必ず確認しなければならない。不幸にも使徒時代以後から今まで多くのキリスト者はこの作業をしないまま聖書を無理に解して救済論を作った。このために聖書が全くえない行いによる救済論がキリストを支配することになった。それで、多くのクリスチャンが救いの確信がなくて地獄の恐怖に苦しめられることになったのである。

 

新約聖書記者たちが使った「救い」という言葉のギリシャ語は、名詞は「ソテリア」で、動詞は「ソーゾ」だ。

 

(使徒 4・12) この方以外には、だれによっても救い(ソテリア)はありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

 

聖書を細かく調べれば、聖書記者が「ソテリア」と「ソーゾ」を多に使ったことが分かる。

 

1、聖書記者は「人の魂が救いを受けること」を表現する時、「救い」という言葉を使った。

 

(使徒 16・31) ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

 

本文に使われた「救い」という言葉は「魂の救い」を意味する。本文は「イエスを信じれば魂の救いを受けることができる」という意味だ。このように聖書記者は「人の魂が救いを受けること」を表現する時「救い」という言葉を使った。

 

2、 新約聖書記者たちはクリスチャンの肉体が死ぬ時、魂が天国へ入ることにも「救い」という言葉を使った。

 

(第二テモテ 4・18) 主は私を、すべてののわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

 

本文は使徒パウロの話だ。彼はイエスを信じる時、永遠に天で暮らせる命(永遠の命)を得た人だ。それでも彼は「神が私を天国へ入るように救われるだろう」と言った。これを見る時、本文の「救い」とは、彼の肉体が死ぬ時に彼のが天国へ入ることを意味するのだということが分かる。

 

3、 新約聖書記者たちはクリスチャンの肉体が復活して千年王に入ることにも「救い」という言葉を使った。

 

(ヘブル 9・28) キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、2度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

 

本文で見るようにヘブル人への手紙の記者はイエスが再臨して、新生したクリスチャンの肉体を復活させて千年王に入るようにするのを「救い」と言った。

 

4、 新約聖書記者たちは「地で祝福を受けること」を表現する時も「救い」という言葉を使った。

 

(使徒 27・43) しかし百人隊長は、パウロをあくまでも助けよう(ソーゾ)と思って、その計画押え、泳げる者がまず海に飛び込んで陸に上がるように

 

本文は使徒パウロが、罪もないのに囚人になって船にってロマに行く途中、起きた事件を記したものだ。その時、激しい暴風によって船が沈することになった。マ軍人は囚人が逃げることを防ぐために「囚人を全部殺そう」と百人隊長(指揮官)に意見を申し立てた。しかし百人隊長は使徒パウロを生かすために「船にったすべての人は泳いで陸地に上陸しなさい」と命令した。聖書はこれを「パウロを救いたいと思うところから」(使徒 27・43、口語訳)と表現した。本文に使われた「救い」との言葉が人の魂を救うのを表現する時、使ったものと同じ「ソーゾ」だ。使徒パウロはすでにイエスを信じて魂の救いを受けた人だ。また、信者ではない百人隊長には使徒パウロの霊を救う力がない。人の霊を救う方はただ神だけである。したがって本文の救いが使徒パウロの体を救うこと(命を救うことー体が助かること)を意味することが分かる。祝福の中でもっとも大きい祝福は、死にかかった命が生き返ることだ

以下に紹介する聖書の御言葉に記された「救い」も「体が助かる」ことを意味する。

 

(使徒 27・20) 太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる(ソーゾ)最後の望みも今や絶たれようとしていた。

 

(使徒 27・34) ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かる(ソーゾ)ことになるのです。あなたがたの頭から髪1筋も失われることはありません。(新改訳)

 

(使徒 27・34) だから、いま食事を取ることをお勧めする。それが、あなたがたを救う(ソーゾ)ことになるのだから。たしかに髮の毛ひとすじでも、あなたがたの頭から失われることはないであろう。(口語訳)

 

『使徒の働き』の記者は、暴風にって肉体が死ぬことになったことを「助かる(ソーゾ)最後の望みも絶たれようとしていた」と表現した。また使徒パウロは「食事を取ることがあなたがたを救うことになる」と表現した。これは「食事を取ることがあなたがたの肉体の命が生きる」という意味であることが分かるこのように聖書記者は魂の救い同じく肉体の救いを明する時も救いという言葉を使った。

 

そして、聖書記者は「救い」という言葉を魂の救い、肉体の救い、また他の場合にも使った

 

5、 新約聖書記者たちは「天国で賞を受けること」を表現する時にも「救い」という言葉を使った。

 

新約聖書記者たちが「天国で賞を受けること」を「救い」として表現したのを分かったら、聖書の救いの意味を正しく知ることが出来る。初代教会以降、今までこれを悟ることができなくて、多くの人が行いによる救済論を信じるようになったのだ。

 

「天国で賞を受けること」を「救い」と表現した手紙は、ヤコブの手紙、ピルピ人への手紙、ヘブル人への手紙、ペテロの手紙だ。ここではヤコブの手紙だけを確認してみよう。

 

(ヤコブ 2・14) 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救う(ソーゾ)ことができるでしょうか。

 

2千年余りの間、多くの神者たちは本文の「行いのない信仰では救いを受けることはできない」という御言葉を、「行いのない信仰では魂の救いを受けることができない」という意味だと堅く信じた。このような理由にアルミニウス主義者はヤコブの手紙を根にして勢い良く、「新生したクリスチャンも大きな罪(あるいは多くの罪)を犯したら地獄へ行く」と主張することができた。

 

反面、恵みによる救いを信じるクリスチャンはヤコブの手紙ために大きい悩みにるほかはなかった。偉大な宗改革者マルチンルタ神父がヤコブの手紙のためにんだと言う話は有名だ。クォンヨンギョン授は宗改革者マルチンルタ神父がヤコブの手紙のためにんだ事を次の通り紹介した。

 

「良く知られた通り、ルはヤコブの手紙を『わらの書』と呼んで、新約聖書の一部として認定することを躊躇した。ヤコブの手紙は新約聖書の他の本と比較してみる時、福音的特性が全くないということがその理由であった。ヤコブの手紙の義認論がパウロの義認論とっ向から反すると考えたから、彼は『誰かこの二人のえを調和させることができる人がいるならば、私は私の博士の帽子を彼にかぶせて、彼が私をバカと呼ぶことを許す』と言った。」

 

改革派者ケンダル博士は彼の著書『一度の救いは永遠だ』で、マルチンルタ神父がヤコブの手紙のためにんだ事を次の通り紹介した。

 

「ルはせいぜいヤコブの手紙を『わらの書』と見なしたし、彼が死ぬ1、2年前には『ビテンベルグ大学でヤコブの手紙をえるな』と助言した。」

 

ヤコブの手紙のためにんだ多くの恵みによる救済論者は、「ヤコブの手紙は本に救われたクリスチャンであれば必ず実践しなければならない真理をえた御言葉だ」と主張するほかなかった。

 

筆者もヤコブの手紙2章14節の本当の意味を悟る前にはヤコブの手紙2章14節の救いが魂の救いだと思った。このために筆者は本書を執筆しながらずいぶんんだ。

 

「パウロは信仰によって救われると主張したが、どうしてヤコブは行いによって救われると主張しただろうか?」

 

筆者はこの宿題を解くことができなくて悩んでいた。ある日、神が筆者に突然ヤコブの手紙1章25節を思い出させて下さった!

 

(ヤコブ 1・25) ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を1心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

 

筆者は直ちにヤコブの手紙を開いて本文の文脈を確認した。驚くべきことにヤコブの手紙が話す救いは魂の救いではなかった! 筆者は直ちにピリピ人への手紙2章12節の文脈も調べた。その箇所も魂の救いする明ではなかった! ついでに筆者はヘブル人への手紙6章4~8節の文脈も調べた。その箇所も魂の救いする明ではなかった! びっくりした筆者は興奮を隠すことができなかった

 

結論から言う。ヤコブの手紙の2章が話す「救い」とは「祝福と賞を受けること」を意味する。今からこれに関係ある聖書の証を紹介する。

ヤコブの手紙2章が話す「救い」が「祝福と賞を受けること」を意味するのだと言う最初の証はヤコブの手紙1章にある。

 

イエスの弟であるヤコブ先生は、試練にあった信徒たちが忠実な信仰生活をして(律法をちゃんと守って)命の冠を受けるように、祝福を受けるようにとヤコブの手紙を記した。

 

(ヤコブ 1・2) 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

 

(ヤコブ 1・12) 試練に耐える人は幸いです。耐え拔いて良しと認められた人は、神を 愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 

(ヤコブ 1・25) ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を1心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

 

ヤコブの手紙1章25節の「自由」という言葉はギリシャ語「エルリュデリア」だ。「救いと関係のないことをしても、しなくても良い自由」と言う意味だ。

 

「自由の律法」とは、クリスチャンが魂の救いを受けるために制的に(必ず)守らなければならない律法を意味するのではなく、クリスチャンが祝福と賞を受けるために進んで守る律法を意味する。

 

ヤコブ先生はヤコブの手紙1章にき、ヤコブの手紙2章でもクリスチャンが律法を守らなければならないことを調した。

 

(ヤコブ 2・8~9) もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。

 

(ヤコブ 2・12~14) 自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救う(ソーゾ)ことができるでしょうか。

 

上の箇所の文脈を見る時、本文の「行い」は「律法の行い」を意味するのが明らかだ。したがって本文は「律法を行わなければ救いを受けることはできない」という意味が明らかだ。このような文脈を見る時、ヤコブ先生がヤコブの手紙1章で話した「律法を守って賞を受ける、律法を守って祝福を受ける」という主張(ヤコブ 1・12、25)をヤコブの手紙2章で「律法を守って救いを受ける」と言い替えたことが分かる。言い換えれば、ヤコブ先生が「律法を守って祝福を受ける」、「律法を守って賞を受ける」と話すことがわずらわしいので、2つの内容を簡単に「律法を守って救いを受ける」と表現したことが分かる。聖書記者が「救い」という言葉を色な用途で使ったので、ヤコブ先生の表現には全く問題がない。不幸にも初代教会時代から今まで誰もこの事を悟ることができなくて多くのクリスチャンがヤコブの手紙2章14節の救いを魂の救いのことだと勘違いしたのだ! その結果、多くのクリスチャンが地獄の恐怖に苦しめられていたのだ。

 

ヤコブの手紙2章が話す「救い」が「祝福と賞を受けること」だと言う二番目の証はヤコブがアブラハムとラハブを例にあげて救い明したことである。

先にアブラハムから見よう。

 

(ヤコブ 2・21) 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。

 

ヤコブは、アブラハムが神にイサクを捧げた出来事を根にして「クリスチャンは行いのある信仰によって救いを受ける(義と認められる)」と証言した。不幸にも多くのクリスチャンはこの御言葉を根にして「クリスチャンもアブラハムのように生きてこそ天へ行く」と主張したり、「アブラハムのように生きるクリスチャンだけが本物のクリスチャンだ」と主張する。このような主張が間違いであることは創世記を見ればすぐに理解することができる。

 

(創世記 22・16~17) 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

 

アブラハムが神に息子を捧げて魂の救いを受けたのか? そうではない。彼は神に息子を捧げて大きい祝福を受けた。

 

アブラハムが神にイサクを捧げてこの世の祝福だけを受けたのだろうか然天の賞も受けただろう。そのように忠誠をつくしたアブラハムに神が大きい賞をくださったと思う。それでヤコブが行いによって祝福と賞を受けた人物の例としてアブラハムをあげたのだ。したがってヤコブの「行いのある信仰によって救われる(義と認められる)」という言葉が「行いのある信仰で祝福と賞を受ける」という意味であることを明確に知ることが出

 

ヤコブはアブラハムが行いによって祝福と賞を受けたのを例にあげた後、ラハブが行いによって祝福と賞を受けたことを例としてあげた。

 

(ヤコブ 2・25) 同樣に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。

 

ラハブが命をかけてイスラエルの偵察兵をして大きい祝福を受けたことはヨシュア記と他の聖書に明確に記されている。彼女はそのようなことをして自分と自分の家族の命を救う祝福とユダ部族のサルモンと結婚してボアズを産む祝福とダビデ王の高祖母になる祝福を受けた

彼女もアブラハムのように大きい賞も受けただろう。それでヤコブがラハブを例としてあげて、行いによって祝福と賞を受ける理をえたのだ。ただしヤコブが「ラハブは行いによって祝福と賞を受けた」という話を簡単に「ラハブが行いによって義と認められた」と表現したのだ! その時の聖書記者が「救い」という言葉と「義と認められる」という言葉を色な用途で使ったのでヤコブの表現には何の問題もない

 

ヤコブの手紙2章が言う「救い」が「祝福と賞を受けること」を意味するのだと言う、最も明らかな証はヘブル人への手紙11章にある。

 

(ヘブル 11・6) 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 

上の本文でヘブル人への手紙の記者は「神に近づく者は、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならない」と宣言した。この御言葉は「神に忠誠をつくした人は必ず賞を受けることを信じなければならない」という意味だ。そしてヘブル人への手紙の記者は約時代に神に忠誠をつくした人を例にあげて神に忠誠をつくせば賞を受ける理を明した。これがヘブル人への手紙11章の容だ。

 

約時代に神に忠誠をつくして賞を受けた信者の代表者はモーセであろう。

 

(ヘブル 11・24~26) 信仰によって、モセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

 

本文で見るようにモーセは神からえられるもの()を見ていたので、苦しみを受けながら神に仕えることができた。ヘブル人への手紙の記者がこの話をするのは、新約時代の信者もモーセのように神に忠誠をつくして賞を受けるようにさせるためであった。このような目的でヘブル人への手紙の記者は「ノアは賞を受けることを期待したからまだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造った(ヘブル 11・7)、また「アブラハムは賞を受けることを期待したから故を離れることができた」と言っています(ヘブル11・8~10)。このように信仰の偉人たちが賞を期待しながら神に忠誠をつくしたことを紹介したヘブル人への手紙記者は次のことを言う。

 

(ヘブル 11・17) 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。

 

この話は「アブラハムもモーセのように賞を期待しながら一人息子を神に捧げた」という意味だ。言い換えればこの話は「アブラハムが一人息子を神に捧げて賞を受けたように私たちもアブラハムのように神に忠誠をつくせば賞を受けることができる」という意味だ

 

このようにヘブル人への手紙の記者とヤコブの手紙の記者が同じく、アブラハムが一人息子を神に捧げて恵みを受けた事件を根に「行いのある信仰で(律法を守って)祝福と賞を受ける」と証言した。ただしヤコブの手紙の記者は、行いのある信仰(律法を守って)祝福と賞を受けるのを「行いのある信仰(律法を守って)救いを受ける」と表現したのだ。

一方、ヤコブの手紙の記者とヘブル人への手紙の記者は同じく、エリコの遊女だったラハブも行いによって賞を受けた信者のモデルとして紹介した。

 

(ヤコブ 2・25) 同樣に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。

 

(ヘブル 11・31、信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け 入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。

 

このようにヘブル人への手紙の記者とヤコブの手紙の記者が同じくアブラハムとラハブを例にあげて「行いのある信仰で祝福と賞を受ける」と証言した。 ただしヤコブの手紙の記者が行いのある信仰で祝福と賞を受けるのを「行いのある信仰で救いを受ける」と表現したのが違うだけだ

 

アブラハムとラハブはいつ魂の救いを受けたのだろうか? これも聖書の中に明確に記されている。

 

先にアブラハムから見よう。

 

(創世記 15・3~6) さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を 外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 

本文はアブラハムがイサクを産む前に神を信じて(行いのない信仰)義に認められたこと(魂の救いを受けたこと)を記したのだ。

 

使徒パウロはアブラハムがイサクを産む前に行いのない信仰で魂の救いを受けた事を次の通り証言した。

 

(ローマ 4・2~3) もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

 

このように旧約聖書と新約聖書の記者が同じく、アブラハムが信仰によって魂の救いを受けたことと彼が行いによって祝福と賞を受けたことを明確に分して証言する。

 

ラハブはいつ魂の救いを受けたのだろうか? ヨシュア記はラハブが魂の救いを受けた時点を次の通り証言した。

 

(ヨシュア 2・11) 私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。

 

イスラエルの人々がヨルダン川を渡る前に、ラハブはイスラエルの神を天と地を治める神として信じて魂の救いを受けた。その時のラハブの信仰は行いのない信仰だった。このようにラハブもアブラハムと同じく行いのない信仰で魂の救いを受けたのだ

 

ではここで、ヤコブの手紙2章22節の「彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、」という御言葉は何の意味なのかを調べよう。

 

創世記22章を見れば「アブラハムの信仰行いによって全うされ」という御言葉が何の意味なのか簡に知ることが出る。

 

(創世記 22・12) 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その 子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

 

アブラハムは神にイサクを捧げる前にも神を恐れていた。このために彼が故を離れてカナンの地に行ったし、敬虔に生きることを努めたのだ。だが、彼がイサクを捧げる前には神が認める程十分に神を恐れなかった。彼が、自分の命より愛するイサクを神に捧げようとした時に始めて、神は彼に大きい祝福と大きい賞を受ける信仰があることを認められた。このために神が「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と宣言されたのだ。

これを見る時、神が認める程、神を恐れることが決して容易ではないことが分かる。言い換えれば、神が大きい祝福と大きい賞をえる程神に忠誠をつくすことが決して容易ではないということだ。

 

* 付言

 

ヤコブの手紙の本当の意味を解ったと判する筆者は、長い期間ヤコブの手紙ためにんだマルチンルタ神父を考えざるをえない。彼はどんなに苦しくて、「私にローマ人への手紙とヤコブの手紙を調和させる人がいるならば、私は彼に私の博士帽子をかぶせて、私に『バカ』と呼ぶのを許す」と約束しただろうか? たぶんマルチンルタ神父は筆者のヤコブの手紙の解を最も喜ぶと思われる。だから筆者は天国へ行ってイエスを尋ねた後に一番最初にマルチンルタ神父にってみたい。

 

* エピソ

 

筆者が本書の初版を出版して、筆者が所した地方総会の中の教会の一部が筆者の本に異議を提起した。筆者が、400年以上理として信じられてきたカルビン主義救済論を改革したのだから彼らの反然のことでもあった。

新しい思想が近い人から一番最初に排斥を受ける現象にして、イエスは「預言者が尊敬されないのは、自分の鄕里、家族の間だけです」(マタイ 13・57)と明らかにされた。

 

『ロマ人の物語』を書いた塩野七生は次の通り話した。

 

「新しい運動はそれが何でも最も近い人から一番先に反を受けることになるのだ。」

 

改革者たちの思想は彼らが所したカトリック教会から一番最初に排斥を受けたし、イエスの思想は神様の民であるユダヤ人から一番最初に排斥を受けた。このように筆者の救済論は筆者が所した教会の地方総会から一番最初に排斥を受けた。十分ありえることだが念なことだ。

 

地方総会の異議を訴える牧師や長老たちして負担を感じた筆者は弱気になって「私の主張を撤回する」と宣言した。地方総会の会員たちは拍手で迎した。そのようにして地方総会が終わった。

 

ところでその日、筆者が家に帰るとき問題が生じた。友達の牧師が帰り道で筆者にみ物を買ってたくれたが、そのみ物をんだ後に筆者の体に異常が発生した。飲み物を飲んで20分後に筆者の顔はE.T.のようにわり、全身の力が抜け、目が完全に見えなくなった。大きい衝を受けた筆者は直ちに筆者の罪を悔い改めた。

「父なる神、主が解かるようにして下さった理を否定した罪を悔い改めます。赦して下さい。2度といたしません。」

 

すると死にそうになった筆者の体がわずか1~2分のに正常になった

 

だが、み物ショックで死にそうになってから生き返った後にも、信仰の弱い筆者はくじ引きでもう一度神の御旨を確認した。妻とともに「主張撤回」、「継続主張」と書いた紙を封筒に入れてに祈った後にくじを引いた。最初選んだのが「継続主張」であったが、ギデオンの羊毛のしるしを考えてもう一度引いた。それでも「継続主張」が出た。その時から筆者は神に完全に降して、筆者が所属した長老教団から追い出されてもなお今まで粘りく神が筆者に解らせて下さった救済論を播している。

 

ライフ新学校の学長であるイェヨンス博士は、筆者の本を称賛した後、「いったいどんな教団がこのようにすばらしい本を問題にして牧師を追い出したのか」と言った。イェ博士は「この本を位論文として表すれば誰も是非を論じる人はいないでしょう」と言った。