3. クリスチャンも山上の教訓を守らなければ天国へ行けないのか?

 

 

大体の牧師と信徒は、イエスが比喩法を使って救いを明されたことはよく知っている。イエスが使った有名な救い比喩は種まきの比喩、失った羊を探す比喩、放蕩息子の比喩、10人の処女たちの比喩などがある。だが、多くの信徒はもちろん多くの牧師もイエスが反語法を使って救いをえられたのを全く知らない。このためにキリストの救済論に深刻な過ちが生じたのだ

 

法は事そのままを言う語法()であり、反語法は強く意味を示すために反語を用いる修辞法だ。例えば、愚かな人に対して、「おりこうさん」「先生」と呼ぶことを上げられる。

にたっぷりくれるね」という話を考えてみよう。この言葉は、この話をする時の況によって容が180度わるる。にたくさんくれる時、にたっぷりくれるね」と言えば、この言葉は言葉通りの意味だ。反面大少なくくれるにたっぷりくれるね」と言ったら、この言葉は「大少なくくれる」という意味だ。このように、ある話が反語法を使ったか、直法を使ったかによって話の容が完全にわるのだ

 

反語法は調用法だ。したがって反語法は直法より果が大きい。このためにイエスが反語法をたくさん使ったのだ。

 

1、イエスが弟子たちに使った反語法

 

(マタイ 14・15~21) 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。 そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが5つと魚が2匹よりほかありません。」すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、 弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、12のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男5千人ほどであった。

 

本文は荒野でイエスつのパンと2匹の魚の奇蹟を起こされたことを記した御言葉だ。その時、集まった人成人男性だけで5千人だった。女の人たちと子供たちを合わせれば1万人を越えた人がそこに居ただろう。

 

夕方になって、1万人余りの群に夕食を食べさせることが大きな問題として現れた。彼らに何も食べないで家に帰らせたら、家に行く途中倒れる人がいるかも知れない。

 

弟子たちはどのようにして彼らに夕食を食べさせるかを考えた。だが、彼らには良い策がなかった。仕方がなく彼らはイエス、群衆を解散させて、村に行ってめいめいで食物を 買うようにさせてくださいと意見を言った。するとイエスは意外にも弟子に「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と命令なさった。

 

「あなたがたで、食べる物を上げなさい。」

 

イエスのこの命令は直法であろうか、でなければ反語法であろうか? これを分かるためには弟子たちがイエスの命令を遂行できるか、できないかを確認すれば良い。もし、弟子たちがイエスの命令を遂行できれば「あなたがたで、食べる物を上げなさい。」という命令は直法だ。したがって弟子は1万人を食べさせる食べ物を用意しなければならない。できる仕事をしない人は不道で怠けるしもべであるからだ。 その反面もし、弟子たちがイエスの命令を絶行できないのであれば「あなたがたで、食べる物を上げなさい。」という命令は反語法だ。にできないことを「しなさい」と言ったのは「絶にそんなことをするな」という意味が含まれた反語法で間違いない。それなら、弟子たちは自分たちが食べ物を手に入れて群衆を食べさせようとする努力をあきらめて、イエスが群衆を食べさせることを信じなければならない。イエスだけがその問題を解決することができるのに、自分たちが解決しようとするのは信仰のない悪い考えであるからだ。

 

聖書を見ればイエスの弟子たちが「あなたがたで、食べる物を上げなさい。」という命令を2つに分けて解したことが分かる。

 

最初に、ある弟子はイエスの命令を直法として解した。

 

二番目に、ある弟子はイエスの命令を反語法として解した。

 

ヨハネ福音書を見れば真実を明らかに知ることが出る。

 

(ヨハネ 6・5~7) イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、2百デナリのパンでは足りません。」

 

本文も5つのパンと2匹の魚の奇蹟の記だ。本文で見るようにイエスはピリポの信仰をテストするためにピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 と尋ねられた。言い換えればイエスはピリポが1万人以上の人々に食べさせるパンを求める問題をどのように解決するかを確認するためにどこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と尋ねられたのだ。

 

ピリポの返事は2つの中の一つになると思う。

 

最初に、ピリポは「この問題は私たちが絶に解決できないので群衆を食べさせることをあきらめなければなりません」と話すことができる。

 

二番目に、ピリポは「私たちは絶に群衆を食べさせる程のパンを持って来ることができないが、イエスはいくらでもこの人たちを食べさせることができます」と話すことができる。

 

ピリポは信仰は足りないが、計算ばやい人だった。彼はイエス様を信じることがなくて「めいめいが少しずつ取るにしても、2百デナリのパンでは足りません。」と答えた。彼の話は「私たちが群衆にパンを食べさせることは不可能だ」という意味だ。言い換えれば「この人を食べさせることをあきらめなければならない」という意味だ。 これでピリポはイエスのテストに不合格になる。 ピリポがイエスのテストに合格するためには「この問題は私どもが絶に解決できなくて、ただイエスだけが解決することができます」と話さなければならなかった

 

パクユンソン博士が本文を正しく解したと思う。

 

「あなたがたが食べ物をえなさい。イエスがこのように言われた理由は、弟子たちの信仰をテストするためだった。」

 

ピリポがイエスのテストに不合格になった後にアンドレが来た。

 

(ヨハネ 6・8~9) 弟子のひとりシモン·ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを5つと小さい魚を2匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう。」

 

アンドレはイエス「ここに少年が大麦のパンを5つと小さい魚を2匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」と言った。彼の話は「これではこんなに多くの人を絶に食べさせることができません。なのでイエス策を用意して下さい」という意味だ。これで、アンドレがイエスのテストに合格した。アンドレの信仰を見たイエス5つのパンと2匹の魚1万人以上の人々を食べさせる奇蹟を起こされた。

 

(ヨハネ 6・10~13) イエスは言われた。「人をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ5千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、 弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン5つから出て来たパン切れを、人が食べたうえ、なお余ったもので12のかごがいっぱいになった。

 

さあ、もうこれは確かだった。弟子は1万人を越える人を食べさせる食べ物を絶に持って来ることができなかった。群衆を村に送って食べ物を買って食べるようにするのも問題の解決策ではなかった。田の町に1万人を越える人が食べる食べ物をるところがあるはずがない。それでも弟子は自分たちの力で1万人を越える群衆の食事問題を解決するために努力していた。無駄なことをしていたのだ。したがって、イエス様の御言葉が「あなたがたが食べ物をえようとするな」という意味を入れた反語法であることを明らかに知ることが出弟子たちは、自分たちが群衆に食べ物を食べさせようとする努力をあきらめるとき、イエスがその問題を解決することを見ることになる。そのとき彼らは、イエス様が反語法を使ったことを知ることになる。わたしたちがイエス5つのパンと2匹の魚の奇蹟のとき、反語法を使って話したことを分かるとき、イエス様が救いの道をも反語法を使ってえられたことを知ることができる

 

2、 イエスが金持ちの年に使った反語法

 

(マタイ 19・16~17) すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

 

ある金持ちの青年がイエスに来て、「私が何の良い行いをして永遠の命を得ることが出来ますか?」と質問した。これを見る時、この年が行いによる救済論を信じていたことが分かる。

 

グランド合注は本文を次の通り解した。

 

彼が受けたユダヤ教の教教育の容を十分に知ることができる。すなわち、彼は永遠の命を良い行いを通して得ることができると信じていたが、これは時ユダヤの「業績念」の反映である。ユダヤの「業績念」によれば、神の国で永遠に生きる永遠の命は、人間の良い行いによって得られるものだと考えていた。

イエスは金持ちの年に次の通り答えられた。

 

(マタイ 19・17下) もし、いのちには入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。

 

人が律法を行なって天国へ行けるなら、イエスの命令は直法だ。したがって金持ちの年は律法を行なって天国へ行くように努力しなければならない。

 

反面、人が律法を行なってへ行くことができなければ、イエスの命令は反語法だ。したがって、金持ちの青年は律法を行なって天国へ行こうとする無駄な試みをあきらめて、天国へ行くことができる他の道(究極的にはイエスを信じること)を探さなければならない。

 

念ながら金持ちの青年はイエスの御言葉を直法として解した。言い換えれば、彼はイエスの御言葉を「律法を行なって天国へ行きなさい」という意味に解した。それで彼に自信が与えられた。彼が幼いころから熱心に律法を守ってきたからだ。 自信がついた彼はイエスに再び質問をした。

 

(マタイ 19・18~20) 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盜んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この靑年はイエスに言った。「そのようなことはみな、行なっております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

 

金持ちの青年が「どの戒めを行なって天国へ行くことができますか」と質問して、イエスは「十戒を守りなさい」と答えられた。すると金持ちの青年は自信たっぷりで「私が小さい時から守っております。」と言った(マルコ10・20)。金持ちの青年の語り口を見る時、この返事をする金持ちの青年の肩にいっぱい力が入っていただろう。その年は心の中から、イエスが「君は天国へ入る資格が充分ある」とおっしゃることを期待しただろう。彼が小さい時から熱心に律法を守ってきたし、イエスが「律法を守れば天国へ入ることができる」と言われたからだ。律法と罪の意味を正確に知らないで熱心に信仰生活をしているクリスチャンは、「戒めを守れば天国へ入ることができる」という御言葉に対して、金持ちの青年と同じ反を見せると思う。

 

「私は善良に生きようと努力するから天国へ行けるはずだ!」

「私は山上の教訓を熱心に行なうから天国へ行けるはずだ!」

 

イエスは、自信を持って答える金持ちの青年に、彼がとうてい出来ないことをするように命令された。

 

(マタイ 19・21~22) イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払ってって貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、靑年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 

イエスは、律法を行なって天国へ行くことを努める金持ちの青年に、非常に難しいことをするように命令された。イエスは彼に「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言った。律法を行なって天国へ行こうとする人は然「隣人をあなた自身のように愛しなさい」という律法を守らなければならないからだ。言い換えれば、その年が律法を行なって天国へ行くなら然自分のすべての財産をって貧しい人に分けなければならないからだ

 

金持ちの青年には彼の財産がアキレス腱だった。幼いころから金持ちとして生きてきた人は貧しくなるのが死ぬことより恐ろしいからだ。彼はイエスの恐ろしい命令を受けた後に律法を行なって(良い行いをして)天国へ行くのが不可能であることを自然に悟った。すると彼は悲しんでイエスから去って行った

 

(マタイ 19・22) 靑年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 

もし、金持ちの青年が財産をすべてって貧しい人に分けてイエスのところに来たらどうなったのだろうか? イエスは彼に「だったら天国へ入る資格が充分だ」と言っただろうか? イエスは絶にそのようにおっしゃられなかっただろう。彼がそのように実行しても彼は天国へ入る資格が全然ないからだ。なぜなのか? イエスが山上の説教明された律法によれば、彼がいくら善い行いをたくさんしても彼は依然として地獄に落ちる罪人にならざるをえないからだ

 

イエスが山上の説教明された律法を再び調べよう。

 

(マタイ 5・21~22) 昔の人に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は最高議に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

使徒ヨハネは「人を殺すな」という律法を次の通り解した。

 

(第一ヨハネ 3・15) 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

 

隣人を嫌うのは殺人罪だ。隣人を叱責するのも殺人罪を犯すことで、隣人を無視するのも殺人罪を犯すことだ。隣人を嫌って、叱責し、無視すれば必ず地獄に落ちる。金持ちの青年がどのようにしてこういう罪を犯さないまま天国へ入ることができようか

 

(マタイ 5・27~30) 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、 すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、 えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

 

この御言葉は「情欲を抱いても必ず地獄に落ちる」という意味だ。罪というものがこのように恐ろしいのに金持ちの青年がどのようにしてこういう罪を犯さないまま天国へ行くことができようか

 

今まで明した律法と罪だけでも凄じい。それでもイエスはより一層あきれた話をなさった。

 

(マタイ 5・38~45) 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。者に手向かってはいけません。あなたの右の額を打つような者には、左の額も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けといるような 者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

 

イエスは「求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」と言った。イエス様の御言葉は「隣人の要求を全部聞き入れてこそ天国へ入ることができる」という意味だ。言い換えれば、「求める者に与え、借りようとする者に断わらないようにしてこその子供になって天国へ入ることができる」という意味だ。金持ちの青年がどのようにして、このような凄じい律法を行なって天国へ入る資格を得ることができるだろうか? これを見る時、金持ちの青年になさったイエス様の御言葉は反語法であることが分かるのだ。

 

現在の私たちの況を見てみよう。昔もそうだったが今でも多くの人が私たちの助けを望んでいる。ある人はお金を要求する、ある人は服を要求する、ある人は家を要求する、ある人は血を要求する、ある人は骨を要求する、ある人は目を要求する、ある人は肝を要求する、ある人は腎臓を要求する、ある人は皮膚を要求している。要求する人は数え切れないほど多い。イエス、「求める者に与え、借りようとする者に断わらないとき、の子供になって天国へ行くことができる」と宣言された。いったいどんな人がイエスえられた律法を行なって天国へ入ることができるだろうか? イエスが言われたように、律法を行なって天国へ行くことよりはラクダが針の穴に入ることの方がもっと容易だろう。したがって「戒めを行なって天国へ行きなさい」というイエスの御言葉が直法なら大なことになる。この御言葉が直法なら天国へ行く人はひとりもいないからだ

 

金持ちの青年がイエスから離れた後に、イエスと弟子が交わした話が大重要だ。

 

(マタイ 19・23~26) それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

 

ルカの福音書には本文が次の通り記されている。

 

(ルカ 18・24~25) イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神のにはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

 

本文の「イエスが彼を見て」というのは「イエスが金持ちの青年を見て」を意味する。 このためにイエスの弟子たちがイエスの御言葉にびっくりしてイエスに次の通り質問したのだ

「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 

弟子たちの反を見る時、イエスが言われた金持ちがい人でなく、幼いときから誠に生きて天国へ行くことを努めた優しい人であることを明らかに知ることが出る。い人が地獄へ行くからといって驚く人はひとりもいないはずだ。言い換えれば、い金持ちが地獄へ行くことは然だから、弟子たちがい金持ちが地獄へ行くことのために驚く理由が全くない。したがってイエスの御言葉から「あの金持ちの青年のように幼いころから善い行いをしてきた人も絶に天国へ入ることはできない」ということを明らかに知ることが出

 

一方、弟子たちがイエスの御言葉にとても驚いて「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と質問したのを見る時、弟子たちが福音を悟らなかったことが分かる。言い換えれば、彼らも行いによる救済論を信じていることが分かる。弟子たちが福音を悟っていたとすれば驚かないで、次のような反を見せたはずだ。

 

「そうです、イエス。あの年のように幼いころから誠に生きてきた人も、イエスを信じなければ絶に天国へ行くことができません。あの金持ちの青年がいくら熱心に律法を行なっても依然として彼は律法を行なうことができなくて地獄に落ちるしかない罪人ですから。律法を行なって天国へ行こうと努力する人は本にかわいそうです。」

 

弟子たちが自分の救いを確信できなくて不安に思った時、イエスは弟子たちに福音を聞かせられた。

 

「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 

この御言葉は「人の努力では(律法を行なっては、善良に生きては)に永遠の命を得ることができず、ただ神恵みでイエスを信じるだけで永遠の命を得ることができる」という意味だ。その時初めて弟子たちは自身の救いの希望を持つことができただろう

 

今までの明を合してみれば、次のような事を知ることができる。

 

パリサイ人は律法を行なって天国へ行くことができることで勘違いしてユダヤ人に「律法を守れば天国へ行くことができる」とえた。このためにユダヤ人大部分は行いによる救済論を信じていた。

 

イエスは律法を行なっては絶に天国へ行くことができないことをご存知だった。は行いによる救済論を信じるユダヤ人に、律法を行なっては絶に天国へ行くことはできないことを悟ることを願われた。このために神がどんな人も行なうことのできない律法をえられた後に「律法(戒め)を行なってこそ天国へ行くことができる」と宣言されたのだ。したがってイエスの御言葉がパリサイ人の主張と表現は全く同じだが容は正反であることを知ることが出る。このような修法を「反語法」と言う。このようにイエスは反語法を使って金持ちの青年と弟子たちに、真理を教えて下さったのだ

 

3、 イエスが律法の専門家に使った反語法

 

(ルカ 10・25~28) すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどうんでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 

ある律法の専門家がイエスをテストして「私が何をしたら永遠の命を受けることができますか」と質問した。するとイエスは「君が永遠の命を受けようとするなら律法を守りなさい」と命令された。イエスが律法の専門家になさった返事の内容と金持ちの青年になさった返事の内容が全く同じだ。

 

(マタイ 19・17) 永遠の命を受けるために戒めを守りなさい。

 

(ルカ 10・28) 律法を実行すれば永遠の命を得る。

 

人が律法を行なっていくらでも天国へ入ることができるならば、イエスの命令は直法だ。したがって、律法の専門家は必ず律法を行なって天国へ行かなければならない。

 

反面、人が律法を行なって天国へ入ることが絶に不可能であれば、イエスの命令は反語法だ。したがって、律法の専門家は必ず律法を行なって天国へ行こうとする愚かな試みをあきらめて、天国へ行くことのできる他の道を探さなければならない。

 

律法の専門家はイエスの御言葉を直法として解した。言い換えれば、彼はイエスの御言葉を「律法を守れば天国へ入ることができる」という意味として解した。 このように解すると、すぐに彼は自信を持った。彼はイエスに再び質問した。

 

(ルカ 10・29) しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

 

律法の専門家は自分が律法をちゃんと守っていることを自慢するために、言い換えれば自分が天国へ入る資格が充分あるということを自慢するために(自分を正しい人だと見せようと)「私の隣人とは誰ですか」と質問した。彼は自分の周りに住む人を隣人だと考えてこのような質問をしただろう。もし、イエスが「あなたの周に住む人が君の隣人だ」とおっしゃれば、彼は自信を持って「私は幼いころからそんな人をたくさん助けました」と話すつもりであっただろう。だが、イエスは彼の予想と全く違う返事をした。

 

(ルカ 10・30~37) イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ2つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この3人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

イエスは律法の専門家の期待とは全く違う、あるサマリヤ人が強盗会った人を身的に助けた話をした後に「行ってあなたもサマリヤ人のように行ないなさい」と命令された。この御言葉は「君がサマリヤの人のように生きれば永遠の命を得ることができる」という意味だ。隣人を助けることがその律法の専門家のアキレス腱であったため、イエスがそのように言われただろう。まちがいなくイエスの御言葉に律法の専門家は非常に大きい衝を受けただろう

 

人が、困難に遭った隣人たちを助けて天国へ入ることができるならば、イエスが律法の専門家に「あなたもサマリヤ人のように行ないなさい」と言ったことは直法だ。 できることを「しなさい」と言うのは「してほしい」という意図が明らかだからだ。

 

人が困難に遭った隣人たちを助けて絶に天国へ入ることができないならば、イエスの御言葉は反語法だ。できないことを「しなさい」と言うのは「するな」という意図が明らかだからだ。

 

考えて見なさい。この世には強盗遭った人がえきれないほど多い。強盗遭った人も多くて、失敗の強盗遭った人も多くて、貧困の強盗遭った人も多い。 したがって善い行いをして天国へ入ろうとする人は強盗遭ったを全部助けなければならないのはもちろん、罪を少しも犯さなくてこそ、はじめて天国へ入る資格を得る(マタイ 5・22)。したがって人が全く善い行いだけをして、全く罪を犯さないで天国へ入るのは全然不可能だ。そういうわけでイエスが律法の専門家に「あなたも彼のようにしなさい」と言われた御言葉が「サマリヤ人のように生きて救いを受けようとするな」という意味が含まれた反語法であることを簡に知ることが出る。聖書に記されてはないけれど、その律法の専門家も律法の恐ろしさに怯えながら、金持ちの青年のように悲しんでその場を去って行っただろう(マタイ19・22)

 

4、 イエスが山上の説教で使った反語法

 

マタイの福音書7章に聖書で最も有名な救済論難解箇所がある。

 

(マタイ 7・21) わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

 

ある人たちは本文を根に「いくらイエスを信じても山上の教訓を守らなければ地獄へ行く」と主張し、ある人たちは本文を根に「本物のクリスチャンは必ず山上の教訓を行なって天国へ行く」と主張する。

 

下の文章はビョンスンウ牧師の主張だ。

 

「信仰を持って山上の教訓をそのまま行う者は結局永遠の命を得ることだが、山上の教訓を行なわない者は滅亡するでしょう。」

 

下の文章はクォンヨンギョン授の主張だ。

 

「天国へ入るのは私たちがイエスの御言葉を聞いて、それを行うか行わないかに掛かっている。私たちが天国へ入るためには、イエス恵みだけを期待して「主よ、主よ」と叫ぶ信仰では充分でない。」

 

このような主張のために多くのクリスチャンが山上の説教を行なって天国へ行こうとじたばたするし、心は燃えていても、肉体は弱いので罪を犯してしまうクリスチャンはやむを得ず地獄の恐怖に苦しめられたり、異端にったり、自殺を敢行することになる

 

本文を正しく解釈するためには、イエスが言われた「天におられるわたしの父のみこころを行なう」のが何を意味するかを先ず知らなければならない。

イエスはヨハネ福音書6章40節で「私の父のみこころは子を見て信じることだ」と言われた。だが、ヨハネの福音書6章40節で言われた「神のみこころ」はマタイの福音書7章21節で言われた「神のみこころ」と全く違う。ヨハネの福音書6章40節の「神のみこころ」は「イエスを信じること」を意味するが、マタイの福音書7章21節の「神のみこころ」は「律法を行なうこと」を意味するのだ。筆者がこのように主張する理由は次の2つだ。

 

最初に、マタイの福音書7章21節以前の文章の文脈から「神はみこころを行うこと」が「律法を行なうこと」を意味するのだということが分かる。

 

(マタイ 5・21~22) 昔の人に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

(マタイ 5・27~30) 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

 

(マタイ 5・38~45) 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。者に手向かってはいけません。あなたの右の頰を打つような者には、左の頰も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けといるような 者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

 

(マタイ 7・12) それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

 

イエスはこのように、誰も行いによって天国へ行くことはできないという凄じい律法をえられた後に「あなたがたが神のみこころを行なったら天国へ入ることができる」と宣言された

 

(マタイ 7・21) わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

 

本文のこのような文脈を見る時、「父のみこころを行なう者」が「イエス明された律法を全て行なう人」であることを明らかに知ることが出る。したがって本文を次の通り解することができるはずだ。

 

「私に『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、私が明した律法を全て行なう者が天国へ入るだろう。」

 

二番目に、マタイの福音書7章21節以後の文脈を見ても「神のみこころを行うこと」が「律法を行なうこと」を意味するのが分かる。

 

(マタイ 7・24~27) だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 

イエスは「だから」という言葉で本文を始められた。「だから」という言葉は、前に明した話の結論を下す時に使う言葉だ。イエスは前の文章で、誰も行いによって天国へ行くことができないという凄じい律法を明された後に、「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができる、しかし、わたしのこれらの言葉を行わない者は砂の上に自分の家を建てた人と同じだ」と宣言された。本文の文脈を見る時、イエスが言われた「わたしのこれらの言葉」が前の文章でイエス明された凄じい律法であることがはっきり分かる。

 

もう本文の意味が明らかになった。

 

もし、山上の説教の律法を行なって天国へ入ることができる人がひとりでもいれば「神のみこころを行ってこそ天国へ入るだろう」という御言葉は直法だ。ができることを「しなさい」と言うのは然のことであるからだ。これが事ならば、すべてのクリスチャンは必ず山上の説教の律法を行なって天国へ入らなければならない。

 

もし、山上の説教でイエス明された律法を行なって天国へ入ることができる人がひとりもいなければ「神のみこころを行ってこそ天国へ入るだろう」という御言葉は反語法だ。イエスが誰もできないことを「しなさい」と命令されたわけが全くないからだ。これが本当であれば、すべてのクリスチャンは絶に山上の説教の律法を行なって天国へ入ろうとせずに、必ずイエスを信じて天国へ入ろうとしなければならない

 

イエスが山上の説教明された律法を行なって天国へ入るクリスチャンがひとりもないのは、上で明したが大重要なので要約して再び明する。

 

イエスは「兄弟に腹を立てたり、兄弟を叱責したり、兄弟を無視したりしても地獄へ投げ込まれる」と宣言されたし(マタイ 5・22)、「情欲を抱くだけで地獄へ投げ込まれる」と宣言されたし(マタイ 5・28)、「求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」と言われた(マタイ 5・45)

 

そして、律法は全部守ってその中の一つだけでも落ち度があれば、すべての律法を犯したことになる(ヤコブ 2・10)。常識的に考えても、隣人に怒らないで、隣人を無視しないで天国へ行くことは絶に不可能で、異性に情欲を抱かないで天国へ行くことも絶対に不可能で、隣人を自分自身のように愛して天国へ行くことも絶対に不可能で、すべての律法を完ぺきに守って天国へ行くことも絶に不可能だ。イエスえられた律法によれば、律法を行なって天国へ行く人はひとりもない! これを見る時、イエスが行いによる救済論を信じるユダヤ人に向かって、誰も行なうことのできない律法を明された後に反語法で「律法を行なったら天国へ入ることができる」と言ったことが分かる。したがってイエスの御言葉は「律法を行なって天国へ入ろうとする人は絶に天国へ入ることができないだろう」という意味である。イエスの御言葉は、表現はパリサイ人たちと同じだが容はパリサイ人たちと正反である

 

パクユンソン博士はマタイの福音書7章21節を次のように解した。

「この箇所は『律法を完全に行ったら救いを得る』という理をえるように見られる。しかしこの箇所は、救いの法則を言うのではない。この箇所は審判、即ち、裁きの法則を言うのだ。裁きの法則があり、その後に謝罪の法則ができたのだ。この箇所の裁きの法則は、後日に救いの法則を教える為の準備階段である。この箇所の御言葉を『恵みによる救済の法則を教える為の前提だ』と言える。この箇所の御言葉を『恵みにより救われる制度を否定する内容だ』と主張するのは正しい神察ではない。」

 

筆者が前に明したイエスの反語法を思い出してみよう。

 

イエスは荒野で1万人以上の群衆に食べ物を与える問題のために悩んでいた弟子たちに「あなたがたが食べ物を与えなさい」と反語法で言われて、彼らが無駄にんでいることを悟らせて下さった。したがって「あなたがたが食べ物を与えなさい」と言う御言葉は「あなたがたが食べ物をえようとするな」という意味である

 

イエスは律法を行なって天国へ行こうと努力する金持ちの青年と律法の専門家に「律法を行なって天国へ行け」と反語法で言われて、彼らが無駄なことをしたということを悟らせて下さった。したがって「律法を行なって天国へ行け」という御言葉は「律法を行なって天国へ行こうとするな」という意味である

 

マタイの福音書7章21節も同じだ。イエスは律法を行なって天国へ行こうと努力するユダヤ人に、どんな人も行なうことができない律法を明された後に「神のみこころを行なって天国へ行け」と言った。したがってイエスの御言葉は「神のみこころを行なって天国へ行こうとするな」という意味である

 

イエス様が人間の救いに対して反語法でえられた御言葉を整理してみよう。

 

「永遠の命を得ようとするなら戒めを守れ。」

「律法を全て行なって神の子供になれ。」

「神のように完全な人になって天国へ行け。」

い門から入って天国へ行け。」

「神のみこころを行なって天国へ入れ。」

 

これはイエス様が、行いによる救いが不可能だということを反語法を用いて教えられた訓だ。

イエスが直法で救いをえられた御言葉を整理してみよう。

 

「神を信じて天国へ行け。」

「私を信じれば救いを得るだろう。」

「人には出来ないけれど、神様にはすべてができる。」

 

これは恵みによる救いが神のみこころであることをえられたイエスの直訓だ。

念ながら今までこれを悟ることができなくて多くの信徒が地獄の恐怖に苦しめられたのだ

 

イエスが山上の説教を通して律法を詳しく明された2つの重要な理由はこれだ

 

最初に、イエスはすべての人が地獄に落ちる罪人であることを悟らせるために律法を詳しく明された。

 

(ローマ 3・20) なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 

イエス様の時代のユダヤ人は、自分が律法をちゃんと行なっている義人だと勘違いしていた。彼らは、律法をちゃんと行なっているので、自分は天国へ行くのだと堅く信じていた。この理由で彼らはイエスを信じて救いを受けようとしなかった。

 

イエスは山上の説教を通して、ユダヤ人が間違って習った律法を正しくえて、彼らが地獄へ行くべき罪人であることを悟らせてくださった(マタイ 5・21~22)

 

今でも律法を正確に分からない人は「私は山上の教訓を行なって天国へ行くことができる」と主張したり、「私は神のみこころを行って天国へ行くことができる」と主張する。反面、律法を正しく悟った人は必ず「私は地獄に落ちるしか がない罪人だ」と告白するのだ

 

二番目に、イエスは、律法を通して罪を悟った人がイエスを信じて救いを受けるように律法を詳しく明された。

 

(ガラテヤ 3・24) こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

 

  イエスがユダヤ人に律法の本当の意味をえられたことは、ユダヤ人が律法を習って自身の罪を悟った後に悔い改めてイエスを信じるようにさせるためであった。このためにパウロ使徒が「律法は私たちをキリストへ導く養育係だ」と宣言したのだ。

 

改革派者パクユンソン博士は律法が養育係の役割をするという真理を次のように明した。

 

「山上の教訓でイエスの解された律法を誰が行うことができるだろうか? この律法の前では誰でも自分の力を信じられるなくなって嘆くようになる。『あ、キリストよ! 私の身代わりになって下さい。私はただ主にります』と言うほかない。イエスのこの高い基準の律法の教えは、人が自分自身を罪人だと自覚させて、ただキリストだけにるようにさせる(使徒 3・21~24)。」

 

改革者ジョン・カルビ(JohnCalvin)牧師は『キリスト教綱要』で律法の目的を次のように明した。

 

「このように私たちは律法によっては義を得られないので他の助けを求めるべきで、それはキリストにする信仰に訴えることだ。」

 

聖書には「新生したクリスチャンも神のみこころを行なわなければ、律法をきちんと守らなければ、天国へ行けない」という御言葉が1ヶ所もない。なのに、御言葉を誤解して多くの信徒が地獄の恐怖に震えている! 本当に念なことである。

 

イエスが山上の説教を通して律法をえられた目的がもう一つある。それは新生したクリスチャンが律法を行なって賞を受けるようにするためだ。

 

(マタイ 5・11~12) わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

 

(マタイ 5・19) だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御で、偉大な者と呼ばれます。

 

人が律法を行なって天国へ行くことは絶対不可能だ。新生したクリスチャンが律法を行なって天国へ行こうと努力するのも無駄だ。だが、賞を受けるために律法を行なうのは良いことだ(平和の時代には新生したクリスチャンが律法を行なって、この世で祝福を受けることもできる)。このためにイエスが山上の説教を通して律法を詳しくえられたのだ。したがって新生したクリスチャンも最善をくして律法を守る必要がある。

 

一方、「イエス様は『わたしに向かって、主よ、主よ、と言う者がみな天の御国にはいるのではなく』と言ったけど、『主よ、主よ』と言う者は、イエスを『神』と呼んだのだから、彼らは本物のクリスチャンではないか」と主張する人がいる。彼らは「本物のクリスチャンも神のみこころを行なわなければ地獄へ行く」と主張する。だが、これは聖書を誤解したことだ。イエス様の時代の人は、身分の高い人、大事な人に「主」と呼ぶ習慣があった。

 

(マタイ 27・62~63) さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は3日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。

 

祭司長、パリサイ人はロ督であるピラトを「主」(ギリシャ語でキュリオKurio)と呼んだ。(日本語の聖書では閣下で翻訳された)

 

次の聖書の箇所も未信者がイエスを「主」と呼んだことを証言している。(韓国語では主、日本語の聖書では先生で翻訳された)

 

(ヨハネ 4・11) 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」

 

本文はスカル町の、ある女性がイエスに初めてった時のことを記したものだ。 彼女はイエスをユダヤ人男性として考えていた。それでも彼女はイエスを「主」と呼んだ。このような理由で、信者ではない預言者がイエスを「主」と呼んだのだ。したがってイエス様を「主よ、主よ」と呼ぶ者を無件「本物のクリスチャン」だと定してはいけないのだ。

 

ある人は「イエスを信じない偽預言者がどのようにして主の名前で預言をし、どのようにして主の名前で悪霊を追い出し、どのようにして主の名前で多くの奇蹟を行うことができただろうか」という疑問を抱いたりもする。だが、死ぬ時までイエス救世主として信じなかったイスカリオテ・ユダが多くの奇蹟を行ったことを考えれば、この疑問は簡に解けるだろう(マタイ 10・1~8)

 

(マタイ 10・1) イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れたどもを制する権威をお授けになった。どもを追い出し、あらゆる病、あらゆるわずらいを直すためであった。

 

本文を見よ。イエスは明らかに12弟子皆に悪霊を追い出す、また、すべての病気、わずらいを治す力を与えた。12弟子の中にはイエスを信じないイスカリオテ・ユダも含まれていた。このように神信者にもえて神様の仕事をさせる場合がある。は、偽預言者であるバラムが一時的に神の御言葉を伝えることを許したこともあって(民数記22・9、ヨシュア 13・22)、不道な者が奇蹟を行うことを許すこともある。

 

申命記は神偽預言者が奇蹟を行うことを許す理由を次の通り説明した。

 

(申命記 13・1~3) あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。

 

本文で見るように神は必要な場合に、神様を信じない人々にも力をえて、彼らが神の働きに協力するようにされる。このために預言者も奇蹟を行うことができたのだ。したがってマタイの福音書7章に記された預言者を本物のクリスチャンだと勘違いして「本物のクリスチャンも神のみこころを行なわなければ地獄へ行く」と主張してはならない。