これが救いだ
4. 恐れおののいて自分の救いを達成してこそ天国へ行くのか?
ピリピ人への手紙2章12節も聖書記者が「救い」という言葉を色々な用途で使ったことを分からないから、多くの信徒が誤解する箇所の一つだ。
(ピリピ 2・12) そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
多くの牧師は上の文章の救いを魂の救いと断定する。このために彼らは上の文書を根拠に行いによる救済論を主張する。
シン・マンチョル牧師は上の文書を次の通り解釈した。
「神様は、このように得た貴重な救いを天国へ行くその日まで守る方法として『救いを達成しなさい』という言葉を下さったのだ。一度得た救いをなくすかと思って心配だから堕落しないで救いを最後まで守って完成させるように、これからは救いを達成するために努力しなければならない。天国へ行く列車の切符のように救いの切符を購入するのも大事だが、列車が天国へ到着する時まで切符を保管するのも大事だ。切符を購入したとしても、天国への列車が着く時、切符がなくなったら困るだろう。」
反面、恵みによる救済論を信じる人々は本文の内容に非常に困ると思う。
本文の言う「救い」に非常に困った改革派神学者ビンセント牧師は次の通り残念な心情を吐露した。
「ここの救いは、救いがただ神様の恵みの贈り物だという(エペソ 2・8)真理と矛盾だ。」
エペソ人への手紙2章8節は「救いは神様の贈り物」と言っているが、ピリピ人への手紙2章12節は「救いは行いで得ること」と言う。このために2つの御言葉の正しい意味を分からなければ、2つの御言葉が矛盾に見なされるほかはない。結局、本文を無視するか、無理に本文を解釈するほかはない。
不幸にも今まで多くの神学者が本文を無視したり、無理に本文を解釈した。このために聖書が全く教えてない、行いによる救済論が全世界のキリスト教を支配するようになり、多くのクリスチャンが地獄の恐怖に震えたのだ。今からでも本文を正しく解釈しなければならない。
聖書記者は「救い」という言葉を、魂の救いを受けること、祝福を受けること、賞を受けることを表現する時に使った。したがって、本文の「救い」が「どんな救いなのか」を確認した後に本文を解釈するのが正しいと思う。
本文を正しく解釈するには本文の文脈を正確に把握する必要がある。神学者たちが今日までこの作業をしないまま本文だけを解釈したので本文を根拠に行いによる救済論を主張する過ちを犯したのだ。
本文の文脈を調べよう。
(ピリピ 2・8~12) キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス·キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
本文を見れば使徒パウロが「イエス様が十字架を背負うまで謙虚に従われたので、神様がイエス様を高く上げて下さった」と証言した後に(ピリピ 2・8~11)、「だから、恐れおののいて自分の救いを達成しなさい」と命令したことが分かる(ピリピ 2・12)。本文をこのように見ることが正しい理由は2つある。
最初に、12節の「そういうわけですから(ギリシャ語ホーステ)」という言葉は、前の文章で主張した内容の結論を下す時に使う言葉だ。このような理由で、本文は必ず「イエス様が謙虚に従われたので、神様がイエス様を高く上げて下さった。(そういうわけですから)あなたたちもイエス様のように謙虚に従ってあなたたちの救いを受けなさい」と解釈するのが正しい。
改革派神学者イ・サングン博士は「獄中書簡注釈」で「そういうわけですから」を正確に解釈した。
「『そういうわけですから、愛する人たちよ』以前の文章の内容を受け入れて、キリストが徹底的に服従されたように信徒たちも服従しなさいという意味だ。」
二番目、韓国と日本の聖書には翻訳されなかったけれど、ピリピ人への手紙2章12節の原文に「のように(ギリシャ語カドス)」という従属接続詞があるので、本文は必ず「イエス様が十字架を背負うまで従われたので、すべての名にまさる名をお与えになりました(そういうわけですから、)あなたたちもイエス様のように(カドス)従ってあなたたちの救いを受けなさい」と解釈しなければならない。イ・サングン博士が本文を「キリストが絶対服従されたように(カドス)信徒も服従しなさいという意味だ」と解釈したのは全く正しい。
ピリピ人への手紙2章12節は3つに解釈するしかない。
1、 イエス様は十字架を背負うまで従って魂の救いを受けられた。そういうわけですから、あなたたちもイエス様を見習って、恐れおののいて従ってあなたたちの魂の救いを受けなさい。
2、 イエス様は十字架を背負うまで従って祝福を受けられた。 そういうわけですから、あなたたちもイエス様を見習って、恐れおののいて従ってあなたたちの祝福を受けなさい。
3、 イエス様は十字架を背負うまで従って賞を受けられた。そういうわけですから、あなたたちもイエス様を見習って、恐れおののいて従ってあなたたちの賞を受けなさい。
上の3種類の解釈の中でどんな解釈が正しいかは、イエス様が十字架を背負われた後に何を受けられたかを確認してみれば簡単に知ることが出来る。
神様の息子であるイエス様が十字架を背負うまで従って魂の救いを受けられたはずがない。イエス様がこの地上に住んでおられる時、優れた名前を受けられたり、地上で神様の右に座ったのでなく、イエス様が十字架で死なれた後に極めて優れた名前を受けられたし、その後で神様の右に座ったので、イエス様が受けられた救いが天の上であるものだということを簡単に知ることが出来る。
ピリピ人への手紙2章5~12節の文脈を細かく検討してみれば、ピリピ人への手紙2章12節が使徒パウロがイエス様が十字架を背負うまで従って賞を受けられたのを根拠にクリスチャンの忠誠を促す内容であることをより一層明らかに知ることが出来る。
(ピリピ 2・8~9) キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
本文9節の「それゆえ(ギリシャ語ティオ)」は前に主張した内容を根拠に結論を下す場合に使う言葉だ。本文は「イエス様が自分を低くし、死にまで服従し、十字架で死んだので、(それゆえ)神様がイエス様を高く上げられた」という意味だ。
改革派神学者のヘンドリックスン博士は「ピリピ人への手紙注釈」で本文を次の通り解釈した。
「キリスト・イエスが受けられた、栄光の賞はこのように描かれている。すなわち『それゆえ、神は、キリストを高く上げられた』。自身を低くしたキリストは高く上げられた。『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです』というキリストの教えがもう自身の場合に適用された。」
ヘンドリックスン博士は「イエス様が高く上げられたこと」を「イエス様が栄光の賞を受けられたこと」と解釈した。本文の原文と文脈、そして他の聖書記者たちの記録に照らしてみる時、ヘンドリックスン博士の解釈が正しい。
改革派神学者イ・スンハン博士は彼の著書「ピリピ人への手紙注釈」で本文を次の通り解釈した。
「韓国語聖書では『それゆえ、神は』と翻訳したが、原文『ティオ・カイ・ホ・テオス』は『そういうわけですから、神様も』と翻訳できる。キリストは神様に全面的に従って十字架を背負って犠牲になられたので、そういうわけですから、神様もキリストに対して、全てのものを総動員してキリストを最高の尊い座に上げられたという意味だ。」
「そういうわけですから、キリスト・イエスの低くなることと高くされることは厳然な現実であると同時に、それが、まもなく私たちキリスト者がキリストを見習うことによって神様から得る救いの栄光と賞を暗示するということがパウロの主張だ。」
改革派神学者マシュー・ヘンリー(Matthew Henry)牧師は「ピリピ人への手紙注釈」で本文を次の通り解釈した。
「キリストが自身を低くしたので神様がキリストを高く上げられたのだ。神様は神性だけでなく人性までキリストの全人格を高められた。キリストの高くされたというのは名誉と力で成り立ったのだ。」
このように信実な改革派神学者たちは「イエス様が十字架を背負うまで従われたので(そういうわけですから)神様がイエス様に、優れた名前の賞と神様の右側に座る賞をくださった」と解釈した。イエス様が十字架を背負われた後に魂の救いを受けられたのではない。そうであれば、賞を受けられたことになるのではないだろうか?
一方、ヘブル人への手紙12章にもピリピ人への手紙2章5~11節と同じ内容がある。
(ヘブル 12・1~2) こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り卷いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
本文に「こういうわけで」という言葉がある。この言葉は前で主張したことの結論を下す時に使う言葉だ。
ヘブル人への手紙の記者は試練に遭った信徒たちに、天の賞があることを強調して彼らが神様に忠誠をつくすようにさせるためにヘブル人への手紙を記録した。彼はヘブル人への手紙11章で旧約時代に神様に従って賞を受けた人々の例をたくさん上げた。その後で彼は「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り卷いている」と言った。この話は「私たちには旧約時代に神様に従って賞を受けた証人が多い」という意味だ。また、この話は「私たちもこのような証人を見習って神様に従って賞を受けよう」という意味だ。
ヘブル人への手紙の記者は神様に従って賞を受けた最後の証人としてイエス様を紹介した。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
改革派神学者アンドリュー・モレイ(Andrew Murray)牧師は「ヘブル人への手紙注釈」で本文を次の通り解釈した。
「モーセのようにイエスも賞を期待していた。目に見えないが将来に来るものに対する信仰を持ってキリストは苦難と死に勝った。」
アンドリュー・モレイ牧師が「モーセのようにイエスも賞を期待していた」と主張したのはヘブル人への手紙の記者がヘブル人への手紙11章でモーセを次の通り紹介したからだ。
(ヘブル 11・24~26) 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
総神大学校神学大学院長を務めた改革派神学者クォン・ソンス博士は「ヘブル人への手紙講解」で本文を次の通り解釈した。
「キリストも11章の偉人のように前に向かって走って行かれた方だった。キリストも前にある楽しみのために現在の十字架を耐えられたし、その結果、神様の御座の右に座る賞を受けられた。」
改革派牧師であるパク・ジョジュン牧師は「ヘブル人への手紙講解」で本文を次の通り解釈した。
「イエス様が十字架を耐えることができたことは、未来に来る報いを期待したからだ。」
このようにイエス様は天の賞(前にある楽しみ)を期待したので十字架を(苦難を)耐えられられて神様に服従することが出来た。ヘブル人への手紙の記者が神様に従って賞を受けた証人としてイエス様を紹介して信徒が神様に従順するようにさせたように、使徒パウロも神様に従って賞を受けた証人としてイエス様を紹介して信徒が神様に忠誠をつくすようにさせたのだ。不幸にも多くの信徒がこの事実を悟ることができなくて「恐れおののいてあなたたちの救いを達成しなさい」という御言葉を曲解して、恐れおののいて魂の救いを受けようと努力しているのだ。その結果、多くの人々が地獄の恐怖に震えている! 残念なことである。
オリンピック選手を考えてみなさい。彼らも私たちのように軟弱な性格を持っているので、「国のために忠誠をつくしなさい」と要求されても無条件従うことができないわけだ。そういうわけで、国家がオリンピック選手たちに「オリンピックでメダルを取れば、褒章をする」という約束をすることで、彼らは賞を期待しながら辛い訓練と競技を堪えるのだ。誰も選手たちが賞を期待しながら競技するのを悪いと考えない。すべての国民は、選手たちが賞を期待しながらメダルを取ってもらうことを待ちこがれるのだ。このようにイエス様も弱い人性を持たれたから、天の賞を期待しながら十字架を堪えられたのだ。イエス様がそのようにされたことは全く恥ずかしいことでもなく、少しも誤ったことでもない。
使徒パウロはピリピ人への手紙3章でもイエス様が神様に従って賞を受けられたのを紹介して信徒の忠誠を促した。
(ピリピ 3・12~14) 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト·イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この1事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして1心に走っているのです。
使徒パウロは「捕えようとして、追求している」ものを「目標」だと言った。彼は目標を「上に召してくださる神の栄冠」と言った(ピリピ 3・14)。この文章とピリピ人への手紙2章5~12節を見る時、パウロの「目標」が「賞」であることを知ることが出来る。パウロが捕らえようとして、追求しているのは、イエス様が得られた極めて高い地位と名前、すなわち、天の賞であること(ピリピ 2・5~11)を知ることが出来るし、使徒パウロが1生追求したものも賞であることを知ることが出来る(ピリピ 3・12~14)。
一方、使徒パウロがピリピ教会の信徒に「恐れおののいてあなたたちは賞を受けなさい」と命令したことは、自身が恐れおののいて賞を受けることを努めていたからだ。
使徒パウロはこの事実をコリント人への手紙第一を通して次の通り告白した。
(第一コリント
9・27) 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
使徒パウロはオリンピック選手を例にあげて信徒がオリンピック選手のように賞を受けることを努めることを促す一方、自身もまた賞を受けるために最善を尽くすことを告白した。
(第一コリント
9・24~27) 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
本文の文脈を見れば「私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」という言葉が「私が熱心に他の人に賞を受けなさいと 宣べ伝えておきながら、自身が授賞から脱落するか恐れる」という意味であることを簡単に知ることが出来る。
改革派神学者ケンダル博士は次のように本文を正しく解釈した。
「この箇所は一部の解釈者によって救いに対する言及と見なされてきた。しかしパウロは「失格者」という言葉を「救いを失う者」という意味で使わなかった。彼が失うかと思って恐れたのは「冠」または「賞」だった。これは文脈から明らかに分かる。」
改革派神学者イ・サングン博士も本文を正しく解釈した。
「コリント人への手紙第一の9章23節の御言葉(私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の惠みをともに受ける者となるためなのです)は予定論に対する反対の有力な根拠となる。 アルミニウス主義者たちは個人的な予定と救いの確実性(カルヴァン主義の5大特質の最後のものー聖徒の堅忍)を拒否する。だが、この箇所は教理を論じるものでない、実践を勧めるものだ。その要点は信仰によって救われることを教えるのではなく、行いによって賞を受ける真理を教えることだ。救いはあくまでも信仰によるものであって、救いの後に来る賞は行いによるものだ。」
コリント人への手紙第一には「クリスチャンも信仰生活を熱心にすることで救われることができる」と話している言葉がもう1箇所ある。
(第一コリント
15・1~2) 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
本文の「しっかりと保っていれば」というのは「しっかりと続けていれば」の意味で、本文が「クリスチャンは誠実に信仰生活をしてこそ救われることができる」と話しているのは確かだ。だが、聖書記者が「救い」という言葉を色々な用途で使ったので本文の救いがどんな救いなのかを確認する必要がある。
使徒パウロは全面的に(100パーセント)神様の恵みによって罪人が魂の救いを受ける真理を強調した人だ(エペソ 2・8~9、ローマ 8章)。だから、その使徒パウロが頭がおかしくなってない限り、突然態度を変えて「いくらイエス様を信じても怠けて信仰生活をすると地獄へ行く」と主張するはずがない。また、使徒パウロは堕落した信徒に賞を強調して清い生活を送るように誘導している間(第一コリント 3・10~15、9・24~27)に本文を言ったし、結論として天の賞を強調するために本文を書いた。本文を記録した後にも使徒パウロは「信徒は必ず復活する(第一コリント 15・12~26)」、「信徒は忠誠をつくしたら栄光(賞)を受け取る(第一コリント 15・29~44)」、「信徒が主の中で苦労したことは一つも無駄にならない(第一コリント 15・58)」ことを強調した。したがって使徒パウロがコリント人への手紙第一の15章で「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」と言ったのは「あなたがたが熱心に信仰生活をすれば魂の救いを受ける」という意味ではなく、「あなたがたが熱心に信仰生活をすれば賞を受ける」という意味であることを知ることが出来る。使徒パウロはピリピ人への手紙2章12節のように、本文でも「賞を受けること」を「救い」と表現したのだ。
ケンダル博士は彼の著書『一度の救いは永遠だ』で次の通り話した。
「なのでコリント教会の信者がなくす恐れがあるのは救いではなくて、神の国での賞だ。ガラテヤ教会の信者の場合にも同じだ。」
聖書が教える魂の救いをもう一度考えよう。神様は創世の前に選んだ人の霊を100パーセント神様の恵みで救って下さる。人が魂の救いを得るためにすべき働きは何もない。聖書に「行いによって救いを受ける」と記録された御言葉は「行いによって祝福と賞を受ける」という意味である。また、行いによっては絶対に魂の救いを受けることができないことを強調した反語法である。聖書には「行いによって魂の救いを受ける」という教えが全くない。これを悟ってこそ揺れない救いの確信を持つことができる。
* 煉獄が存在しない証拠
カトリック教会は「煉獄がある」と主張して、「罪をたくさん犯したクリスチャンは死んだ時、天国へ直行できなくて、煉獄に行って訓練を受けた後に天国へ行く」と主張する。だが、この教理は全く聖書の教えではない。イエス様と共に十字架で死んだ強盗の一人が煉獄に行かなくて、イエス様と共に楽園に行ったからだ。その強盗は、自分が死刑に該当する罪を犯したと自ら認めるほど大きな罪人だった。それにもかかわらず、彼はイエス様と共に楽園(パラダイス = 天国の前の段階)に行った。これを見る時、カトリック教会が「罪をたくさん犯したクリスチャンは煉獄に行く」という主張は過ちであることをはっきり知ることが出来る。