5. 一度光を受けて落すれば地獄へ行くのか

 

 

ヘブル人への手紙6章に多くの信徒を恐怖に震えさせる御言葉がある。

 

(ヘブル 6・4~8) 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも墮落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。

 

ある人たちは本文の落した者を本物のクリスチャンだと解して「本物のクリスチャンも落すれば地獄へ行く」と主張して、ある人たちは本文の落した者を偽物の信者だと解して「本文は偽物の信者落して地獄へ行くことをえる」と主張する。

ヘセド注釈は、堕落した者を本物のクリスチャンだと解して「本物のクリスチャンも落すれば地獄へ行く」と主張した。

 

これとは違ってジョン・カルビン牧師は、本文の「落した者」を偽物の信者と解して次の通り主張した。

 

「救われていない者の中にもある程度の知識はある。けれども救われるのに必要な、十分な知識がないないので、結局彼らの知識は枯れて消滅してしまう。」

 

マシュ・ヘンリ牧師もジョン・カルビン牧師と同じ主張をした。

 

「救われていない者も聖霊の奇跡的な賜物を体験することが出来た。使徒時代には救いを受けることが出なかった人にもこのような賜物が下されたようだ。」

 

本文の「落した者」は誰か? 彼らが再び悔い改めることができないのは何を意味するのか? 彼らが焼かれてしまうというのは何を意味するのか? この疑問点を一つずつ討してみよう。

 

1、ヘブル人への手紙が話す「堕落した者」は誰か

 

ヘブル人への手紙6章4~8節は、本文だけを見たら、本文が話す「堕落した者」がどんな信者なのかは分かり難い。ヘブル人への手紙6章4~8節はヘブル人への手紙10章26~27節を共に見てこそ本文が話す「堕落した者」が誰なのかを正確に知ることが出る。

 

(ヘブル 6・4~8) 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも墮落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。

 

(ヘブル 10・26~27) もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

2つの本文は同じ容をえている。

 

10章26節の「私たち」はヘブル人への手紙の記者を含んだヘブル人への手紙を受けた信徒を意味する。神者たちはヘブル人への手紙の記者を使徒パウロだと、あるいは他の使徒ではないかと推定する。彼が誰だとしても彼が本物のクリスチャンであることは明らかだ。またヘブル人への手紙を受けた人もやはり本物のクリスチャンだというのは明らかだ。したがってヘブル人への手紙が「新生したクリスチャンの罪と審判」を話しているのは確かだ言い換えればヘブル人への手紙が新生したクリスチャンが落をすれば再び悔い改める機がないことと、神の恐ろしい審判を受ける事えているのを十分に知ることが出。だとしたら本文は何の意味なのか?

 

2、 本文の文脈は何をえるのか

 

聖書を解するのに最も重要なのは本文の文脈を見ることだ。これを無視して聖書を解すれば、誤った解釈をする可能性が高い。多くの人がヘブル人への手紙6章4~8節を間違って解する理由も、本文の文脈を無視して本文だけ取り出して恣意的に本文を解するところにある。

ヘブル人への手紙の文脈を詳しく調べれば、ヘブル人への手紙の記者がヘブル人への手紙6章4~8節の容と同じ容を繰り返して話すのを明確に知ることが出る。

 

(ヘブル 3・7~13) ですから、 聖が 言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、4十年の 間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」兄弟たち。あなたがたの中では、だれもい不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いにまし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

 

(ヘブル 4・1) こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が1にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

 

(ヘブル 4・11) ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

 

本文で見るようにヘブル人への手紙の記者は、エジプトから脱出したイスラエルの人々が罪をたくさん犯してカナンの地に入ることができないのを例にあげて、自身と信徒たちが落してはいけないことを調した。したがって、イスラエルの人々がカナンの地に入ることができないのが何を意味するかが分かったら、ヘブル人への手紙を正しく解することができる。

 

使徒時代以来今まで多くのクリスチャンは、イスラエルの人々がヨルダン川を渡ったのをクリスチャンの体が死ぬことだと解した。そして彼らがカナンの地に入ったのをクリスチャンの霊が天国へ入ることだと解した。

 

もし、イスラエルの人々がカナンの地に入ったのが新約時代の信者が天国へ入ることを象するのだとすれば、モーセも罪を犯してカナンの地に入ることができなかったから(民数記 27・12~14)彼も地獄へ行ったことになる。カナンの地に入ることが出なかったモーセが天国へ行った事がルカの福音書に明確に記されているではないか(ルカ9・30)?したがってイスラエルの人々がカナンの地に入ったのを、彼らが天に入ったと解すれば、大きな問題を起こすほかはない

 

また、もし、イスラエルの人々がカナンの地に入ったのが、新約時代の信者が天国へ入るのを象するのだとすれば、荒野で死んだ60万人のイスラエルの人は皆地獄へ行ったことになる。こうなれば新約時代の信徒もほとんどの人が地獄へ行くほかはない。カナンの地を天と解すれば、このように大きな問題が生する

 

そして万が一、カナンの地が天を象するとすれば、カナンの地に入った後にエリコの物をんだために殺されたアカンと彼の家族はどうなるだろうか士師記に記されたようにカナンの地に入った後に大きく落してみじめに殺されたイスラエルの人々はどうなるだろうか? 彼らは天に入った後に罪を犯して地獄へ行っただろうか? 私たちクリスチャンも天に入った後に罪を犯して地獄へ行くこともあるのか? カナンの地を天と解すればこのように深刻な問題が生する

 

カナンの地は何を意味するだろうか? 神がイスラエルの人々に荒野を通るようにされたのは何を意味するだろうか? イスラエルの人々が罪を犯して殺されたことは何を意味するだろうか? これを知るためにはイスラエルの人々が紅海を渡ったことが何を意味するかを正確に知る必要がある

 

使徒パウロは聖霊の感動を受けてイスラエルの人々が紅海を渡ったことを次の通り解した。

 

(第一コリント 10・1~2) そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け

 

本文の「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、 と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」というのは、イスラエルの人々が雲の柱の案を受けて紅海を渡ったのを意味する。使徒パウロは「イスラエルの人々が紅海を渡ったことは新約時代の信徒がバプテスマを受けるのを象する」と解した

 

バプテスマは霊の救いを受けたことの象徴である(第一ペテロ 3・21)

人は悔い改めた後にイエス救い主と信じる時、霊の救いを受ける(ヨハネ 6・47)

人の霊はイエスを信じる瞬間にイエスと一つのからだになって天国へ入る。

 

(エペソ 2・4~6) しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな 愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが 救われたのは、ただ恵みによるのです― キリスト·イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 

人はイエスを信じる瞬間に永遠に地獄へ行かない命(永遠の命)を得る。

 

(ヨハネ 10・28) わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

 

さあ、もうイスラエルの人々が紅海を渡ったのが何を意味するのか明らかに知ることが出た。イスラエルの人々が紅海を渡ったことは新約時代の信徒がバプテスマを受けるのを象する。言い換えれば、イスラエルの人々が紅海を渡ったことは新約時代の信徒がイエスを信じて霊の救いを受けること(天国へ入ること)を象する。 したがって、イスラエルの人々がヨルダン川を渡ったのを新約時代の信徒が天国へ入ると解てはいけない。

 

紅海を渡ったイスラエルの人々を考えて見よ。は不道な者と善良な者を分けないですべてのイスラエルの人々が紅海を渡るようにされた。それで使徒パウロが「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と 海とで、モーセにつくバプテスマを受け」と記したのだ。

 

紅海を渡ったイスラエルの人々の中には未来にのみこころに従わないで地に呑み込まれて殺されることになるコラやその仲間もいたし、未来にを恨んで殺されることになる十人の偵察兵もいたし、未来に「エジプトにろう」と不平不満を言って殺されることになる人もいたし、未来に姦淫をして無残に殺されることになる人もいた。 それでも神は彼ら皆が紅海を渡るようにして下さった。これらは神が新約時代の人を救われる時、不道な者と善良な者を分けないで創世の前に選した人を全部救って下さることを象徴したものだ。ハレルヤ。

 

もう紅海を渡ったイスラエルの人々荒野を通った後にカナンの地に入ったのが何を意味するかを明確に知ることが出た。約時代のイスラエルの人々が荒野生活をしたことは新約時代の信徒が世の中で試練を受けることを象して、約時代のイスラエルの人々が荒野を通った後にカナンの地に入ったこと(ヨルダン川を渡ったこと)は新約時代の信徒がテストに合格して祝福と賞を受けるのを象する。申命記の記者はこの事を次の通り記した。  

 

(申命記 8・1~2) 私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この4十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

 

このように神はイスラエルの人々をテストされた後にそのテストに合格した人に祝福をえるために彼らが荒野を通るようにされた。不幸にもそのテストにイスラエルの若い男60万人が不合格になり乳と蜜が流れるカナンの地に入れなかった。反面、ヨシュアとカレブのように忠誠をつくした人、成人してない20才以下の人はカナンの地に入ることができた

 

また、カナンの地に入った人もほとんど落した生活をして、みじめに殺されてしまった。これが士師記に明確に記されている。

 

これを見る時、霊の救いを受ける信者は多いが(紅海を渡った信者は多いが)、祝福と賞を受ける信者は大少ないこと(カナンの地に入った信者とカナンの地で祝福を受けた信者は大少ないこと)を知ることが出

 

念なことに多くのクリスチャンは、イスラエルの人々がヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったことを新約時代の信徒が死んだ後に天国へ行くと解する。このために彼らは「救われる信者が大少ない」と主張する。その結果、多くのクリスチャンが地獄の恐怖に震えている。聖書を間違って解するからこのような悲劇が起きるのだ

 

もう一度調する。イスラエルの人々が紅海を渡ったことは新約時代の信徒が霊の救いを受けたのを象して、イスラエルの人々がヨルダン川を渡ったことは新約時代の信徒が賞を受けるのを象する。したがって私たちは必ず次の通り主張しなければならない。

 

「本当のイエスを信じた信徒はエジプトを脱出したイスラエルの人々のように罪をたくさん犯したために神の恐ろしい怒りを受けて殺されても必ず霊の救いを受ける。 ただしカナンの地に入った人が大少なかったように賞を受ける信徒は大少ないだろう。」

 

もちろんどんな時代にも偽物の(頭と口だけ)信者はいる。だから「すべての信者が天国へ行く」と話すことはできない。だが、エジプトを脱出したイスラエルの人々の場合を考にする時、「多くの信者が天国へ行く」と話すことが正しい

 

ヘブル人への手紙6章4~8節の次の文章を見ても、「一度光を受けて落すれば悔い改めることができない」という御言葉が、新生したクリスチャンが祝福と賞を受けることを調した御言葉であることを知ることが出る。

 

(ヘブル 6・11~15) そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。

 

ヘブル人への手紙の記者は「神に忠誠をつくして賞を受けた信徒を見習いなさい」と話した後に「忠誠をつくして賞を受けた信徒の代表」としてアブラハムを紹介した。 彼は「神がアブラハムに「必ず祝福をえる」と約束しましたが、アブラハムは長い期間忍耐して神が約束された祝福を受けた」と言った。この話は「あなたがたがアブラハムを見習って神に忠誠をつくせば必ず賞を受ける」という意味だ(ヘブル 11・17)。これを見ても「一度光を受けて落した人は悔い改めが不可能だ」という御言葉が「一度光を受けて大きい罪を犯す信者は賞(あるいは祝福)を受けることができない」という意味であることを明確に知ることが出

 

聖書は、新生したクリスチャンが罪を犯したら祝福と賞を受けることができないことをえている。それだけだ。聖書は、新生したクリスチャンも罪を犯したら地獄へ行くことを決してえているのではない。新生したクリスチャンはこれを悟ってこその救いの確信を持つことができる

 

3、 ヘブル人への手紙1章の意味は何なのか?

 

「一度光を受けて落した者は再び悔い改めることができない」という御言葉はヘブル人への手紙1章で言及した容を根に記したのだ。だから本文はヘブル人への手紙1章から正しく解したら正確に理解することができる。

 

ヘブル人への手紙1章の核心容は次のとおりだ。

 

(ヘブル 1・3) 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 

(ヘブル 1・4) 御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。

(ヘブル 1・9) あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」

ヘブル人への手紙1章は始終1貫イエスが十字架を背負われた後に優れた名前を相続として受けられた事を証言している。

 

イエスは神の子だ。したがってイエスは霊の救いを受けるために十字架を背負う理由が全くない。イエスは十字架を背負って死なれた後に優れた名前を受けられた。だからイエスが十字架を背負われた後にこの世の祝福を受けられたのでもない。したがってイエスが十字架を背負われた後に優れた名前を賞として受けられたことが分かる。この事を前の章で十分に明したのでこれ以上明しなくても良いだろう。

 

ヘブル人への手紙の記者は、人間の姿でこの世に来られたイエスが神に忠誠をつくして賞を受けられたことを根に次の通り話した。

 

(ヘブル 2・1~3) ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が當然の処罰を 受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、

 

本文は「ですから(ギリシャ語ディア)」という語から始まった。「ですから(ディア)」は前で明した容を根に結論を下す時に使う言葉だ。本文の意味は次のとおりだ。

 

「イエスは十字架を背負うまで忠誠をつくして優れた名前()を受けられた。だから、信者がこのように大きい救い()をないがしろにしたら神の審判を受けるだろう。」

 

ヘブル人への手紙の記者が言う「こんなにすばらしい救い」は「イエスが受けられた賞」と同じ性質のものだ。 したがって『こんなにすばらしい救い』が『霊の救い』を意味しないで、「忠誠をつくして受ける賞」を意味するのだということが分かる。もし「こんなにすばらしい救い」が「霊の救い」であれば、「イエスが十字架を背負うまで忠誠をつくして霊の救いを受けられたので(ですから)私たちも十字架を背負うまで忠誠をつくしたら霊の救いを受けることができる」と解釈するしかなく、「私たちがイエスが受けられたことと同じ霊の救いをないがしろにしたらの審判を受けて地獄へ行くのだ」ととんでもない解するほかはない。イエスは霊の救いを受ける必要がない神の子だから本文の救いを霊の救いと解するのが間違いだ

 

ヘブル人への手紙の記者は信者がすばらしい救い(賞を受けること)を無視すれば、神の御怒りを受けることを次の通り証言した。

 

(ヘブル 3・14~17) もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は4十年の間だれを怒っておられたのですか。 罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

 

ヘブル人への手紙の記者はイスラエルの人々が罪を犯してカナンの地に入ることができなかったことを例としてあげて、「罪を犯す信者は神の御怒りを受けて滅亡するほかはない」と警告した。これは新生したクリスチャンが罪を犯したら祝福と賞を受けることができないことを示す。

 

4、 ヘブル人への手紙の全体の容は何か

 

ヘブル人への手紙の記者は、新生したクリスチャンが受けた霊の救いが永遠に保障された事明したこともあるが(ヘブル10・14)、基本的にヘブル人への手紙の記者は、新生したクリスチャンが神に忠誠をつくして受ける祝福と賞の問題を扱った。ヘブル人への手紙全体を綿密に調べればこの事実を明らかに知ることが出る。

(ヘブル 6・13~14) 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」

 

(ヘブル 10・34~35) あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。 それは大きな報いをもたらすものなのです。

 

(ヘブル 11・6) 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 

(ヘブル 12・2) 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 

ヘブル人への手紙の記者は、イエスが忠誠をつくして賞を受けられたことを紹介することで文章を始めて(ヘブル人への手紙1章)文章の中でも繰り返して賞の重要性を調した(ヘブル 6・13~14、10・34~35)。その次には神に忠誠をつくして賞を受けた約時代の信徒たちを人紹介した(ヘブル11章)。引きき、イエスが神に忠誠をつくして賞を受けられたことを調した(ヘブル 12・1~2)。これを見る時、ヘブル人への手紙が永遠の命を得た信者に賞を受けさせるための目的で記された手紙だということが分かる。今日に至るまでこの事を悟らなかった多くの牧師が本文をに行いによる救済論を主張し教えたから、多くの信徒が地獄の恐怖に震えるようになったのだ

 

5、 ヘブル人への手紙の記者が言及した消滅する火とは何か?

 

(ヘブル 12・28~29) こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、愼みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です

 

ヘブル人への手紙の記者は「私たちの神は焼き尽くす火だ」と言った。落した信者を焼き尽くすのでそのように表現したのだ。果たして「神落した信者を焼き尽くす」ことは何を意味するのだろうか? これを正しく解るためには神と地獄の火を比較してみる必要がある。

 

ヨハネのを見れば地獄の火が書かれている。

 

(黙示録 21・8) しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

 

使徒ヨハネは「地獄」を「火と硫黄との燃える池」と定義した。火と硫黄との燃える池」と「焼き尽くす火である神」は全く違う。が地獄ではないからだ。だったらヘブル人への手紙の「焼き尽くす火である」を「地獄の火」と解してはいけない

 

ヘブル人への手紙の記者が神を焼き尽くす火だと言った理由は何だろうか? 聖書から2つの理由を探すことができる。

 

一番目の理由は、神が罪を犯した信者に、火のように怒って信者の肉体を裁かれるからだろう。

 

(ヘブル 10・26~29) もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでも モーセの律法を無視する者は、2、3の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

 

二番目の理由は、神が信者に賞を下さる時、火で審査してくれるためだろう。

 

(第一コリント 3・12~15) もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

 

ケンダル博士は『一度の救いは永遠だ』で「焼き尽くす火」を次の通り明した。

 

「一度受けた救いは永遠の救いだ。ある人たちは『火の中で』救いを受けることになるだろう。しかし彼らが救われるのはイエスを神だと口で告白して、で神がイエスを死者の中から起こされたと信じたからだ。彼らは全的恵みで救われた。彼らの救いはイエス・キリストからいただいた義によるものだ。パウロはこの賞を受けるのを切に望んだ。彼は永遠の世界の長い月を賞なしで生きることを願わなかった。ある人たちは『私は救いを受けたことで満足する』で言う。しかしパウロはそのように言わなかった。彼はその賞を望んだ。イエスはこのようにおっしゃった。見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。』」

 

信者がこの地で呪いを受けることも、天国で賞を受けることができないことも恐ろしいことだ。この地で呪いを受ければ多くの苦しみを味わうからで(申命記 28・15~68)、天国で賞を受けることができなければ恥じ入ることになるからだ(第一ヨハネ 2・28)。それでヘブル人への手紙の記者が次の通り警告したのだ。

 

(ヘブル 10・26~31) もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。・・・・・・生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。

 

ヘブル人への手紙の記者は本文でエジプトを脱出したイスラエルの人々が大きい罪を犯して殺されたのを例としてあげた。聖書は大きい罪を犯して殺される信者も必ず天国へ行くことをえる(第一コリント 5・1~5)。ただし大きい罪を犯して殺される信者は肉体的、精神的に大きい苦痛を受けて、罪を犯した分、天国の賞も奪われるこのためにヘブル人への手紙の記者が「生ける神の手にことは恐ろしいことです 」と警告したのだ。したがって、ヘブル人への手紙を根に「本物のクリスチャンも大きい罪を犯したら地獄に落ちる」と主張したり、「本物のクリスチャンは大きい罪を犯さないので地獄に落ちない」と主張して、心は燃えていても体が弱くて大きい罪を犯してしまう信者を地獄の恐怖に追い詰めてはいけないだろう。

 

一方、ある人たちは「神を結ばないブドウの木の枝を切られること」を(ヨハネ15・2、6)に「新生したクリスチャンも善良に生きなければ地獄へ行く」と主張する。だが、ヨハネ福音書15章の御言葉もヘブル人への手紙の御言葉のように「新生したクリスチャンも大きい罪(あるいは多くの罪)を犯したら肉体が殺されて、賞を奪われること」を意味するだけだ。

 

ヨハネの3章14~22節に記されたラオデキヤ教会の信徒の話しは、を結ばない信者がどうなるかをえる御言葉だ。彼らは世の中の富に酔ってイエスを自分たちの中心に迎えないで、自身が王様だと思って生きていた。その結果彼らはイエスから「わたしの口からあなたを吐き出そう」と叱られました。彼らは祝福と賞を全部奪われる危機を迎えることになった。それにもかかわらず、イエスは彼らを地獄へ送られなかった。彼らは永遠に地獄へ行かない命(永遠の命)を持っていたからだ(ヨハネ 10・28~29)

 

人間の父親の中にはい父親もいるし、愚かな父親もいる。このような人は子供を育てる時、「おまえが大きな過ちを犯したら、親子のを切る」と極端に子供を脅迫する。このような脅迫を受けた子供は不安定で悩んだり、父親と社にさからったりする。そしてほとんどの人が極端に落した生活をする。だから賢い父親は子供を育てる時、絶に極端な脅迫をしない

 

は良い父親で、極めて賢い方だ。このような神が私たちに「おまえが大きい過ちを犯したら地獄へ送る」という風に愚かな脅迫をするだろうか? 神が絶にそうされるはずがない。聖書にもそのような内容が全く書かれていない。言い換えれば聖書には神が大きい罪を犯す信者を地獄へ送るというような御言葉は全くない。また、聖書には神が多くの罪を犯す信者を全部偽物の信者として取り扱う御言葉も全くない。が救済論に関する難解聖書箇所を間違って解釈して、そんな内容の御言葉が存在すると勘違いしているだけのことだ

 

* 

 

再び調するが、人はイエスを信じないから地獄へ行くのであって、罪をたくさん犯すから地獄へ行くのではない。クリスチャンがこのことを悟ることができないために、地獄の恐怖に震えたり、信仰生活をあきらめたり、異端にったり、自殺をしたりするのだ