これが救いだ
6. クリスチャンも罪をたくさん犯したら地獄へ行くのか?
クリスチャンの中には次のような疑問を持った人が多い。
「新生したクリスチャンも罪をたくさん犯しうるのか?」
「新生したクリスチャンが罪をたくさん犯したらどうなるのか?」
キリスト教の神学者はこの質問に2つの方法で答える。
一つは、カトリック神学者とアルミニウス主義者たちは「新生したクリスチャンも罪をたくさん犯したら地獄へ行く」と答える。
韓国教会の代表的なアルミニウス主義者であるビョン・スンウ牧師は彼の著書『地獄へ行くクリスチャン』で次の通り主張した。
「私たちが信仰で救われるのが確かなように、御言葉通り生活しない者が天国へ入ることができないのも確かだ。」
二番目、カルビン主義者たちは「偽物の信者だけが罪をたくさん犯して地獄へ行く」と答える。
あるカルビン主義者は次の通り主張した。
「クリスチャンは故意に、図々しく、罪を全く自白することなく、持続的に罪を犯すことはできない存在だ(第一ヨハネ 3・9、 5・18)。」
このような解答以外には適切な解答がない。このためにクリスチャンは仕方がなく2つの主張の中で一つを信じるほかはないことだ。その結果多くのクリスチャンが地獄の恐怖に震えるようになったのだ。
カトリック信者とアルミニウス主義者は「新生したクリスチャンだとしても罪をたくさん犯したら地獄へ行く」と主張する。カルビン主義者は「本当の新生したクリスチャンは絶対に罪をたくさん犯さない」と主張する。筆者はこのように主張する。
1、聖書は、新生したクリスチャンは罪をたくさん犯しても必ず天国へ行くとを教えるので「新生したクリスチャンだとしても罪をたくさん犯したら地獄へ行く」という主張と「本物のクリスチャンは罪をたくさん犯さない」という主張は間違いだ。
(第一コリント 5・1~5) あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
本文に記録された信者は異邦人もなかなか犯さない大きい罪(あるいは多くの罪)を犯した人だ。彼は父の妻を妻としている者だ。「父の妻」は「父の女」と翻訳することもできる。おそらく彼女は父の後妻や、妾であるだろう。だが、父の後妻や、妾も母であることは明らかだ。だから、息子が母を犯したことは天人共怒する罪だと言える。信徒がそのような大きな罪を犯したのだから、パウロはあきれたと思う。パウロはコリント教会の信徒たちに「それは異邦人も犯さない罪だ」と叱り飛ばしたのだ。
アルミニウス主義者の主張によれば、父の妻を妻にした信者は大きい罪を犯したので必ず地獄へ行かなければならない。カルビン主義者の主張によれば、この信者は偽物の信者だから必ず地獄へ行かなければならない。
果たして使徒パウロが非人間的行為を犯したその信者を地獄へ行くのだと言っているのか? 違う。使徒パウロはその人の肉体だけをサタンに引き渡して殺されるようにして、彼の霊は天国へ行くように措置した。
(第一コリント 5・5) このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
本文の「霊が主の日に救われるためです」という御言葉は「体が死ぬ時、霊が天国へ入るようにする」という意味だ。本文を見る時、新生したクリスチャンは大きい罪を犯しても地獄へ行かないことを明らかに知ることが出来る。
次はダビデを考えてみよう。
ダビデは父の妻と一緒にすんでいる信者よりもっと大きい罪を犯した。彼は姦淫の罪はもちろん殺人罪も犯した。殺人罪は人が犯す罪の中で最も大きい罪だ。ダビデは自身の代わりに戦場で戦っている、忠誠心が強い部下の妻と姦通の罪を犯した。また、それに加えて、その部下を殺す殺人罪までも犯した。この世の中にダビデより大きい罪を犯したクリスチャンが何人いるだろうか? 筆者が知っている信者の中でダビデのように大きい罪を犯した信者は一人もいない。大きな罪を犯す信者が皆地獄へ行くことならば、ダビデは必ず地獄へ行くべきではないだろうか?
罪をたくさん犯す信者が皆偽物の信者だとすれば、ダビデは明らかに偽物の信者ではないだろうか?
多くの人々が主張しているとおりに「信者も罪をたくさん犯したら地獄へ行く」としよう。それなら、信者はどれくらい罪を犯したら地獄へ行くのだろうか? 父の妻と姦淫の罪を犯した人も地獄へ行かなかったとすれば、いったいどれくらいの罪を犯したら地獄へ行くのだろうか?
戦場で戦っている部下の妻と不倫の罪を犯し、その部下を狡猾な方法で殺したダビデも地獄へ行かなかったとすれば、いったいどれくらいの罪を犯したら地獄へ行くのだろうか?
数十人と姦淫の罪を犯して、数十人を殺したら地獄へ行くのだろうか?
聖書の教えは、キリスト教の2大救済論者の教え、「クリスチャンも罪をたくさん犯したら地獄へ行く」のと正反対だ。それでも今まで多くのクリスチャンがキリスト教の2大救済論を信じている。真に残念なことだ。
2、 聖書が「とても小さい罪を犯しても地獄へ行く」と宣言するので、「罪を少ししか犯さなかったら天国へ行く」という主張は間違いだ。
(マタイ 5・21~22) 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
イエス様は「兄弟に向かって腹を立てる者はゲヘナに投げ込まれる」、「兄弟に向かって『能なし』と言うような者もゲヘナに投げ込まれる」、「兄弟に向かって『ばか者』と言うような者もゲヘナに投げ込まれる」と宣言された。イエス様の御言葉は「とても小さい罪を犯してもゲヘナ(地獄)に投げ込まれる」という意味だ。この御言葉を見る時、キリスト教の3大救済論者が「小さい罪を犯したら天国へ行くことができる」と主張するのは間違いであることが分かる。
使徒ヨハネは「人を殺すな」という律法を次の通り解説した。
(第一ヨハネ 3・15) 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
隣人を憎むことは殺人罪を犯すことと同じだ。隣人をののしるのも殺人罪を犯すことで、隣人を無視するのも殺人罪を犯すことだ。本文も確かに、小さい罪を犯しても地獄に入るという意味だ。この御言葉を見る時、キリスト教の3大救済論者が「罪を少ししか犯さなかったら天国へ行くことができる」という主張は間違いだ。
次に紹介したイエス様の御言葉を見よ。
(マタイ 5・27~30) 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
本文も、「とても小さい罪を犯しても地獄に入る」という意味だ。この御言葉を見る時、キリスト教の3大救済論者が「罪を少なく犯したら天国へ行くことができる」と主張することが間違いだということが分かる。
イエス様はさらに、私たちのあきれてしまうほどの、凄じい律法を教えて下さった。
(マタイ 5・38~45) 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頰を打つような者には、左の頰も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
イエス様は「求める者に与え、借りようとする者に断わらないようにしたら(それでこそ)神様の息子になって地獄に入らない」と宣言された。恐ろしい御言葉ではないか? 読者たちは神様が教えられた律法を守って天国へ入る自信があるのか? この御言葉を見る時、キリスト教の3大救済論者が「罪を少ししか犯さなかったら天国へ行くことができる」と主張するのが間違いだということが分かる。
聖書が教える罪を具体的に考えてみよう。
最初に、隣人に害を及ぼすのが罪だ。
二番目、神様に害を及ぼす(神様に栄光を帰さない)ことが罪だ。
三番目、隣を自分自身のように愛しないことが罪だ。
四番目、心と命をつくして神様を愛さないことが罪だ。
ほとんどのクリスチャンは、隣人と神様に害を及ぼす罪が何なのかを分からない。隣人と神様に直接的な害を及ぼすことだけが罪だと考えている。彼らは隣人と神様に間接的な害を及ぼすのを罪と思わない。また、多くのクリスチャンは積極的に善を行わないことが地獄に落ちる程の恐ろしい罪であることを知らない。さらに、熱心に信仰生活をしているあるクリスチャンの中では自分が全く罪を犯さないと勘違いしている人さえいる。筆者は「私は100パーセント罪を犯さない」と主張する牧師に会ったこともある。
隣人と神様に害を及ぼす罪がどんなものか、空気を汚染させる罪を考えてみよう。
空気は主に自動車、船舶、航空機の排気ガスと工場の媒煙と家庭の燃料使用のために汚染される。この世には工業製品を作る人々もいて、それらを利用して金儲けをする人々もいて、それらを利用して便利な生活をする人々もいる。だから、工業製品を作ったり、それらを利用して金儲けをする人々は空気を汚染させる主犯で、工業製品を利用して便利な生活をする人々は空気を汚染させる共犯である。そして家庭で暖房用燃料と炊事用燃料を使う人々も空気を汚染させる主犯だ。洗剤を作る人々と洗剤を使う人々はこの地と水を汚染させる主犯だ。政府の法律によれば工業製品を利用して便利な生活をする人々はもちろん工業製品を作ったり、それらを利用して金儲けをする人々も罪人でない。そのような人々を全部罪人だと裁いたら、判事たちと大統領も罪人になるほかはないからだ。だが、神様の法律によればすべての人が地獄に落ちる罪人である。すべての人が「この地を管理しなさい」という神様の命令を破って、この地を破壊して神様に挑戦したからだ。また、「隣人を自分の体のように愛しなさい」という神様の命令を破って、隣人を害して神様に挑戦したからだ。また、「人を殺すな」という神様の戒めを破って隣人を害したからだ。私たちクリスチャンは果たして、死ぬ時までこのような罪を全く犯さないで天国へ行くことができるだろうか?
媒煙と化学洗剤で空気と土地を汚染させて隣人を害するのと、心で隣人を憎むのを比較してみよう。
媒煙と化学洗剤で空気と土地を汚染させて隣人を害するのは隣人を直接的に殺すことだ。心で隣人を憎むのは隣人を間接的に殺すことだ。媒煙と化学洗剤で空気と土地を汚染させて隣人を害するのと、心で隣人を憎むのと、どの罪がより大きいと思うのか? 常識的に考えたら媒煙と化学洗剤で空気と土地を汚染させて隣人を害することがもっと大きい罪であるのではないか? でも聖書は「隣人を憎んだら殺人罪を犯したことなので永遠の命を得ることはできない」と宣言する。だから、神様が媒煙と化学洗剤で空気と土地を汚染させて隣人を害する人々を地獄へ送る罪人だと取り扱われるのが当然なことではないだろうか? 文明国の中で媒煙と化学洗剤で空気と土地を汚染させて隣人を害する罪を犯さない人がいるだろうか?こういう罪を犯さないためにはアマゾンの密林の中で真裸になって生きるしかないだろう?アマゾンの密林の中で真裸で生きる人々の中では隣人を憎む罪や、淫欲を抱く罪を犯さない人がいるだろうか?
また聖書は、神様を心と精神と力をつくして愛さないことも地獄に落ちる罪と規定する。 それゆえ、私たちは死ぬ時まで地獄に落ちる罪を犯して生きるほかはない。このために使徒パウロは次のように言った。
(ローマ 3・20) なぜなら律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
(ローマ 3・23) すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず
アメリカ先住民宣教をして29才で殉教したデイビッド・ブレイノドゥ(David Brainerd)牧師は律法と罪の恐ろしさを悟った後に次の通り告白した。
「私は毎日地獄に落ちても当然な人間だ。『私を生かすために神の子をくださるまで私を愛された』私の主を十分愛さないからだ。」
律法と罪を正しく悟ったプレイノドゥ牧師は律法が決めた通りに神様を愛することができなかったことを地獄へ行く罪と考えた。これが正しい律法観で、正しい罪悪観だ。したがって律法と罪を正しく悟った信者はデイビッド・ブレイノドゥ牧師のように「私は毎日地獄に落ちても当然な人間だ」と言うほかはなく、使徒パウロのように「私は罪人のかしら」となげくほかはない。
自分が毎日罪を犯して生きているということを知らない人は、律法と罪の本来の意味を全く分からないパリサイ人と同じ人だ。イエス様が生きていた当時のパリサイ人も律法と罪の本来の意味を分からなくて、「律法を守って天国へ行くことができる」と主張したからだ。不幸にも今日もこのような錯覚をする信徒が多い。もっと律法と罪を深く勉強しなければならない。
神様がほこりのように小さい罪を犯した人をも地獄へ送る理由は何か? その理由は神様があまりにも清い方なので罪を少しも赦さないからだ。またもう一つの理由は、天国があまりにも清いところなので、罪人は絶対に天国で生きられないからだ。したがってキリスト教の2大救済論者の「大きい罪を犯す信者は地獄へ行かない、小さい罪を犯す信者は天国へ行く」という主張は明らかに間違いだ。
本書を読む読者たちに聞く。あなたはどうするか? あなたはホコリほどの罪も犯さないので天国へ行けるか? あなたは完ぺきに山上の垂訓を守って天国へ行けるか?
もちろんキリスト教の3大救済論者たちも、イエス様が山上の説教で説明された律法がどれくらい恐ろしいものかをよく知っているだろう。 彼らも、イエス様が「ホコリほどの小さい罪を犯しても地獄に落ちる」と教えられたのをよく知っているだろう。それでも彼らは信徒たちに律法を正直に教えることができない。信徒に律法を正直に教えて「新生したクリスチャンも罪をたくさん犯したら地獄へ行く」と主張したり、「新生したクリスチャンは必ず誠実に生きてこそ天国へ行く」と主張すれば、ほとんどの信徒は律法が恐ろしくて教会に通おうとしないことが明らかだからだ。教会に通ってみても地獄へ行くことが明らかであれば、誰が教会に通おうとするだろうか? このためにキリスト教の3大救済論者はイエス様の時代のパリサイ人がやったように「実際に人を殺さなければ天国へ行ける」、「実際に姦淫の罪を犯さなければ天国へ行ける」という風に律法を教える。これは律法をでたらめに教えていることだ。
ここで一度じっくり考えてみよう。
隣人に怒るのも殺人罪を犯すことで、隣人に悪口を言うのも殺人罪を犯すことで、隣人を無視するのも殺人罪を犯すことで、隣人を憎むのも殺人罪を犯すことで、求める者に与えないのも殺人罪を犯すことで、借りようとする者に貸さないのも殺人罪を犯すことで、良いサマリア人のようにしないのも殺人罪を犯すことで、空気と水とこの地を汚染させるのも殺人罪を犯すことだ。したがってすべての人は殺人罪を犯して死ぬほかはない。クリスチャンも同じだ。なのに、多くのクリスチャンは、クリスチャンは罪を少なく犯したら天国へ行って、罪をたくさん犯したら地獄へ行くのだと誤解している。このような誤解のために多くのクリスチャンが地獄の恐怖に苦しめられている。
律法によれば人はホコリほどの小さい罪を犯しても地獄に落ちるほかはない。新生したクリスチャンも死ぬ時まで地獄に落ちるほかはない罪を犯して生きる。果たして神様は新生したクリスチャンをどのように天国に連れて行かれるのだろうか? 神様に何の方策があるのだろうか? 神様には、死ぬ時まで地獄に落ちる罪を犯して生きる、新生したクリスチャンを必ず天国に連れて行ける驚くべき方策がある。本書を続けて読んだら、神様が新生したクリスチャンのために驚くべき霊の救い方策を用意されたことを知ることができる。