8. 新生したクリスチャンの霊も罪を犯すのか?

 

 

の律法によればホコリほどの小さい罪を犯した人も必ず地獄に落ちる。の律法によれば直接的に人を殺すのも殺人罪を犯すことであり、間接的に人を殺すのも殺人罪を犯すことだ。言い換えれば銃や刀で人を殺すのも殺人罪を犯すことで、媒煙をふいて空を汚染させるのも殺人罪を犯すことで、化を使って水質を汚染させるのも殺人罪を犯すことだ。の律法によると、このような罪を犯す人は必ず地獄に落ちる。したがって人は皆死ぬ時まで地獄に落ちるべき罪を犯しながら生きるほかはない。これはノンクリスチャンはもちろん、新生したクリスチャンも死ぬ時まで完ぺきに罪を悔い改めることができないことを意味する。だから使徒パウロが次の通り嘆いたのだ。

 

(ローマ 7・18~19) 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない 行なっています。

 

コリント人への手紙第一の5章1~5節によれば新生したクリスチャンは天人共怒する罪を犯す事もあり、その罪を悔い改めることができない場合もある。それでも神はそのようなクリスチャンを絶に地獄へ送られない。神は新生したクリスチャンを一人ももれなく天に連れていかれる

 

常識的に考えてみよう。

 

人はホコリほどの小さい罪を犯しても必ず地獄に落ちる。ノンクリスチャンはもちろん、新生したクリスチャンも死ぬ時まで日地獄に落ちる罪を犯して生きる。また、ノンクリスチャンはもちろん、新生したクリスチャンも罪を完ぺきに悔い改めることはできない。それでも神は、父の妻と同居生活をする罪を悔い改めてない信者を天に連れていかれた(第一コリント 5・1~5)。表面的に見ると、これは明らかに矛盾だ。

 

がホコリほどの小さい罪を犯す信者を地獄に投げられることが事であれば、神は父の妻と同居生活をする信者を必ず地獄に投げられるべきだ。が悔い改めていない信者を地獄に投げられることが事であれば、神は父の妻と同居生活をする罪を悔い改めていない信者を必ず地獄に投げられるべきだった。それでも神はその信者の体をサタンに渡して殺されるようにさせて、彼の霊が天国へ行くようにして下さった(第一コリント 5・5)。これは矛盾ではないのか? このような理不尽な話がどこにあるのか?

 

私たちは神が詐欺師ではないことをよく知っている。が詭弁家ではないこともよく知っている。 聖書が万古不理であることもよく知っている。それなら神は死ぬ時まで地獄に落ちる罪を犯して生きるクリスチャンをどんな方法で天に連れていくことができるだろうか

 

聖書には、死ぬ時まで地獄火に落ちる罪を犯しつつ生きるクリスチャンを天に連れていく方法が明快に記されている。ただ人が聖書の救済論の難解箇所を誤解していたからその理を悟ることができないのだ。が矛盾を言っているのではなく、人が聖書を誤解したのだ

 

人は霊が天国へ行けば肉体も天国へ行って、霊が地獄へ行けば肉体も地獄へ行く。の律法によればホコリほどの小さい罪を犯した人も必ず地獄に落ちる。したがって新生したクリスチャンが地獄へ行かないためには、イエスを信じて義人になった霊がイエスを信じた以後では一度も(ホコリほども)罪を犯してはいけない。新生したクリスチャンは肉体だけ罪を犯す。このような方法で、新生したクリスチャンが天国へ行く。

 

「果たして新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さないことが可能なことだろうか?果たして新生したクリスチャンは肉体だけが罪を犯すのだろうか? 本当に聖書はこの事えるのだろうか?」

 

結論から言えば、聖書は新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さないことを明白にえる。聖書は新生したクリスチャンの肉体だけが罪を犯すのを明確にえる。ただし人が聖書の救済論難解箇所を誤解したので、これを悟ることができないだけだ。

 

さあ、もう新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さないことをえる聖書箇所を具体的に討してみよう。

 

1、人はイエスを信じる時、霊が永遠に完全になる

 

(ヘブル 10・14) キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

 

本文は新共同訳では「聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった。」と翻訳された。

新生したクリスチャンの肉体が完全でないので罪を犯すのは明らかな事だ。したがって本文が「神が信者の霊を永遠に全うして下さった」という意味であることが分かる。

 

新生したクリスチャンは良心()が永遠に神と完全な係を持つようになった。だから新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さないのだ。反面、新生したクリスチャンの肉体は相変わらず不完全なので罪を犯すほかはない。このためにコリント教会のある信者が父の妻と同居生活をする罪を悔い改めることができないし、ダビデが天人共怒するほど大きい罪(姦淫の罪と殺人罪)を犯したのだ。

 

ある人がイエスを信じる時、イエスのあがない(贖い)のささげ物がその人の霊に永遠に適用される。このためにヘブル人への手紙の記者が「聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」と証言したのだ。反面、信者の肉体は罰として死を経験した後に復活体を受けてから永遠に完全になりえる。

もし、永遠に完全になった信者の霊が再び罪を犯すならば、信者は永遠に完全になった霊を持ったのではなく、永遠に不完全な霊を持ったのだ。これが事であれば、本当はそうではないのに、神が「私が信者の霊を永遠に完全にさせた」とをつかれたことになる。そういうわけで、「信者の霊が罪を犯しうる」と主張する人は、神を嘘つきだと言うのと同じだ。

 

もし、本文に「永遠に」という語がないならば、「人はイエスを信じる時、霊が清くなるが、信仰生活をする間に霊は再び罪を犯す」と、無理な主張をすることもありえる。 しかし、本文に「永遠に」という語があるので、そのようなごり押し主張が通る余地が全くない。したがって本文は「人はイエスを信じる瞬間に霊が永遠に完全になる」と解するのが正しい。

 

2、 人がイエスを信じる時、霊がイエスと一つになって天国へ入る

 

(エペソ 2・4~6) しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな 愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。― キリストイエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 

改革派者マイヤ牧師は本文を次の通り解した。

 

「また、キリストの働きが終わったと話す過去形に注目しよう(5、6節)。神様の恵みによって私たちは罪の墓から復活されて、神に受け入れられて、勝利の御座に、復活された主とともに座っている。キリストが墓におられた時、また、復活された時、私たちはキリストと1体であった。は私たちを、すでに光のキリストとともに光の御座に座っている者と考えておられる。ただし残念なのは私たちがこれを信じないで、そんな者として行動しないことだ。」

 

考えてみてください。イエスと共に天にある信者の霊が罪を犯すのだとすれば、天も罪を犯す所になる。そうなれば、「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。(黙示録 21・27)と記された聖書がを記した本になって、神つきとなる。

 

信者の霊は天にあると同時に信者のからだの中にもある。これが可能な理由は3つだ。

 

最初に、天は時間と空間がないから可能だ。二番目、信者の霊がイエスと1体なので可能だ。三番目、信者と1体であるイエスが天におられる同時に信者の体の中にある信者の霊とも共におられるから可能だ。

 

しかし今、新生したクリスチャンの体は法的にだけイエスと1体で、際的にはイエスと1体になってないから天で暮らすことができない。新生したクリスチャンの体はイエスの再臨の時、復活体を受けてこそ、際にイエスと1体になって天で暮らせる。

 

3、 聖霊は新生したクリスチャンの霊を完全に保護して下さる

 

(第一ヨハネ 5・18) 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、者は彼に触れることができないのです。

 

本文の「神によって生まれた者」は「聖霊によって生まれ変った信者の霊」を意味する。

ある人がイエスを信じる時、彼の肉体が生まれ変らないのは、イエスえて下さった事だ。

 

(ヨハネ 3・6) 肉によって生まれた者は肉です。御によって生まれた者はです。

 

一方、ある牧師はヨハネの手紙第一の5章18節を根に次の通り無理な主張をした。

 

「聖書は『神によって生まれた者』は罪を犯さないと言いました。だから『イエスを信じる』と言いながら罪を犯すのは大きい問題にならざるを得ないのです。イエスを信じておよそ3~4年ほど過ぎたとすれば殆んど罪を犯さないのが正常です。イエスを信じておよそ10年頃過ぎた後には絶に罪を犯さないのが正常です。私は絶に罪を犯さないで生きています。 だから私の講義を聞けば皆さんも100パセント罪を犯さないで暮らせます。」

 

しかし、非常に忠実な信仰生活をしたペテロ使徒と使徒パウロとダビデ王とソロモン王が罪を犯したこと見ても、彼の主張は聖書のえとは違うものだということがすぐ分かる。

 

マシュ・ヘンリ牧師は「神によって生まれた者は罪を犯さない」という御言葉を次の通り正しく解した。

 

神によって生まれるのは心の中からの新しくなるということであり、神の聖霊の力による清い品性、正しい品性の回復である。…だから神によって生まれた人は罪を犯すことができなくなるのだ。…また、彼の心は罪を嫌って遠ざける傾向性を持つことになる。したがって彼の霊は、罪に向かって進もうとする力と性質を抑制し、禁じるようにする。」

 

ヨハネの手紙第一の5章18節の「神から生まれた方」というのは聖霊を意味する。聖霊は人の霊を新生させた後、その時からその人の霊と一緒に暮らされる。また、その時から聖霊はサタンが新生したクリスチャンの霊にることができないように完ぺきに守られる。だから、新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さないことができるのだ

 

4、 神は新生したクリスチャンの霊が罪とって常に勝つようにして下さる

 

(第二コリント 2・14) しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを 放ってくださいます。

本文で使徒パウロは「私たちは罪とって常に勝つ」と宣言した。本文の「いつでものギリシャ語パントテ」は「いつでも、常に、絶えず」を意味する。使徒パウロの話は「私たちは時折勝利するのではなく、常に勝利する」という意味で、「私たちは罪とって一度も負けたことがない」、「私たちは罪とって100パセント勝つ」という意味だ。

 

これだけでなく使徒パウロは「圧倒的な勝利者となる」と宣言した。

 

(ローマ 8・37) しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 

どのようにこうしてそれが可能になるだろうか? 聖霊が新生したクリスチャンの霊を完ぺきに保護して下さるから可能だ。再び本文を見よ。

 

(第二コリント 2・14上) はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え

 

一方、新生したクリスチャンの肉体は罪とって常に勝つことができないのでクリスチャンは常に自身の肉体を打って神に服させるように努力しなければならない。クリスチャンは自身の肉体で罪とって負ける分、この地で神御怒りを受けて、その分天国の賞を奪われるさらにあるクリスチャンは大きい罪を犯して肉体が大きい呪いを受けることはもちろん(第一コリント 5・5)、天国の賞を全部奪われることもある(第一コリント 3・15)。このために使徒パウロが次の通り告白したのだ。

 

(第一コリント 9・24~27) 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです

 

本文の文脈を見れば「私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」という言葉が「私が熱心に他の人に賞を受けなさいと宣べ伝えておきながら、私自身が授賞から落する失格者にならないように頑張る」という意味であることが分かる。

 

5、 新生したクリスチャンは霊と肉体が違うように行動する。

 

(ローマ 7・14~25) 私たちは、律法が的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 ……すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくないを行なっています。 ……すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス·キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 

本文は使徒パウロが自身の霊と肉体の葛藤を記した御言葉だ。 本文で使徒パウロは自分の霊を「内なる人」、あるいは「心」として表現し、肉体を「肉」、あるいは「からだ」と表現した。

 

使徒パウロはロ7章22節で「なる人としては、神の律法を喜んでいる」と言ったし、ロ7章25節で「心では神の律法に仕え」と言った。これを見る時、使徒パウロが「内なる人」という言葉と「心」という言葉を同じ意味で使ったことが分かる。健全な神者たちは使徒パウロが話した「内なる人」が「霊」を意味するのだと意見が一致する。

 

したがって使徒パウロが自分の霊(内なる人、心)神の律法を喜んでいるのに反して自身の肉体(肉、からだ)罪の律法に仕えているために苦しんだことが分かる。 言い換えれば、彼は自分の霊が聖化されたことに反して自分の肉体が聖化されてないことためにんだことが分かる。これを見る時、新生したクリスチャンの霊と肉体が違う行動をするのを明らかに知ることが出る。

 

そして上で明したように神はある人がイエスを信じる瞬間に彼の霊を永遠に完全にさせて下さって、彼の霊を完ぺきに保護して下さる。このために新生したクリスチャンの霊は絶に罪を犯さない。これを見る時、コリント人への手紙第一の5章1~5節に記された父の妻と同居生活をした信者も、彼の霊が絶にその罪に加しないことが分かる。このために神が罪を犯した彼の肉体だけをサタンに引き渡して死なせ、罪を犯さなかった彼の霊を救って下さったのだ

 

6、 新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さないのは私たちの体でも知ることが出る。

 

私たちが肉体が弱くて罪を犯す時、私たちの胸の中に「クリスチャンがこうしてはいけない」という心があるのが分かる。でも、私たちは体が弱くて罪を犯す。その時、体の行動を拒否する心が、私たちの霊である。このように、新生したクリスチャンの霊と肉体は別に行動する。このために神が罪を犯したクリスチャンの肉体だけ罰される。これを悟ることができれば、多くのクリスチャンが地獄の恐怖から解放される

 

クリスチャンのからだの中にクリスチャンの霊があるので「クリスチャンのからだが罪を犯す時、クリスチャンの霊も共に罪を犯す」と誤解しないようにを付けなければならない。クリスチャンのからだの中にあるクリスチャンの霊はからだによって制的に罪に加して汚れるだけ、絶に進んで罪を犯すことがない。そういうわけで、クリスチャンの体がいくら罪をたくさん犯してもクリスチャンの霊は絶に罪を犯さないのだ。

使徒パウロは自身の生まれ変った霊が100パセント自身の体によって無理に罪に加するという事を次のように証言した。

 

(ローマ 7・21~23) そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

 

使徒パウロの話は次のような意味である

 

「内なる人()は清く生きることを努めるが、私のからだが私の霊を捕虜にして罪で汚れるようにする。」

 

霊が肉体によって制的に罪を犯すので霊は罪にしての責任が全くない。これの例をあげてみよう。

 

ある兵士が戦闘に負けて敵軍の捕虜になった。敵軍は捕虜の中のひとりに刃物を持たせて「共に捕虜になった同僚を刺しなさい」と命令した。彼が拒否するとすぐに敵軍は無理やり彼の手に刃物を持たせてから彼の手を握って制的に彼の同僚を刺すようにした。彼の同僚のからだから血が飛び散って彼の手についた。

 

このような場合に同僚を刺した人は罪で汚れたのだが、罪にする責任は全くない。 彼は100パセント敵軍の力によって同僚を刺したためだ。このようにクリスチャンの霊は100パセント体の捕虜になってやむを得ず罪で汚れる。だから、クリスチャンの霊が罪にする責任を負わないのだ。それでクリスチャンの霊が決して裁かれないのである(ローマ8・1)

 

新生したクリスチャンは、肉体によって霊が汚れた場合にどうするべきか? 然肉体で犯した罪を悔い改めた後にイエスの血潮で肉体と霊を洗わなければならない。使徒パウロはこの事を次の通りえた。

 

(第二コリント 7・1) 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

 

7、 新生したクリスチャンの肉体が死ぬ時、彼の霊が直ちに天国へ行くのを見るので、新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さないことが分かる

 

罪から来る報酬は死です(ローマ 6・23)。人はホコリほどの罪を犯しても必ず地獄へ行く(マタイ 5・22)。新生したクリスチャンの体は罪を犯すのでクリスチャンが亡くなる時、体が死ぬ。しかし、新生したクリスチャンの霊は絶に罪を犯さないから、クリスチャンが死ぬ時、霊が直ちに天国へ行くのだ。

 

もし、新生したクリスチャンの霊が罪を犯すのが事であれば、新生したクリスチャンの体が死ぬ時、クリスチャンの霊は直ちに地獄に落ちるほかはない。このために聖霊が新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さないように完全に保護しているのだ

 

筆者が神の恵みで悟ったのは、聖書は新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さない事を明白にえていることだ。

キリスト神学者たちは次のような錯をしたので、新生したクリスチャンの霊が絶に罪を犯さないことを悟ることができなかった。

最初に、彼らは人の霊と肉体が結びついていて、者が共に罪を犯すのだと勘違いしていた。

二番目、彼らはクリスチャンの肉体が罪を犯すのを明した聖書の箇所を、クリスチャンの霊が罪を犯すのを明した箇所だと勘違いしていた。

 

また、一方で一度の救いが永遠の救いであることを悟ったクリスチャンは必ず放にならないようにを付けなければならない。の保証を受けたといって放縦な生活をしてもいいわけではない。

 

R・T・ケンダル博士は次のような目談を話した。

 

「私たちがケンタッキにあるバプテスト教会に行く時、ミクがこんな話をした。わたしはその話を生々しく記憶する。『このバプテスマ式が終わったら私はうれしいだろう。 私は1週間の間、少し清くなろうと努力した。口もしなかったと。しかし、今晩からはを遣う必要がないだろう。バプテスマさえ受けたら、その時からは自分の思い通りに生きるのだ。私は昔の生活に再びっても、救いは受けておいたから。』私が記憶する限り、これはミクが話したそのままだ。」

 

ミクが「バプテスマを受ければ、救われる」と信じるのも大きな勘違いだが(バプテスマを受けても救われないこともある)、彼が「バプテスマを受けたから好きなように生きても大丈夫だ」と信じるのはより大きい錯に違いない。国教会にも恵みによる救いを信じるクリスチャンの中にミクのように勘違いをするクリスチャンが時いる。

 

クリスチャンたちがミクと同じ錯をする理由は、神が罪を犯したクリスチャンを必ず懲らしめる事と呪いの恐ろしさと祝福と賞の重要性を分からないからだ。したがって、恵みによって救われることを悟ったクリスチャンは放陥らないために次の内容を憶える必要がある。 神様が、罪を犯したアカンと彼の家族を全部殺されたこと、エジプトを脱出したイスラエルの若い男が続けて罪を犯した時、二人を除いた60万人を荒野で死ぬようにされたこと、ダビデが罪を犯した時、懲らしめを受けたこと、アナニアとサッピラ夫婦がをついた時、死に至らしめられたこと、火の中をくぐるようにして助かった人のように天へ行っても賞を受けることができないクリスチャンがいることなどを記憶すれば簡に罪を犯すことができないだろう。