9. 救われたという証は何か

 

 

多くのクリスチャンは「救われたという証は善い行い」と信じている。このためにアルミニウス主義者は「本物のクリスチャンも善い行いがなければ地獄へ行く」と主張するし、カルビン主義者は「本物のクリスチャンは必ず善い行いをすることになっている」と主張するのだ。このような「行いによる救済論」のために多くのクリスチャンが地獄の恐怖に苦しめられていたり、異端にったり、自殺をはかったりするのだ。

 

国教会によって異端だと裁かれた新天地のイマニ氏は、救いの確信がない信徒たちを惑わしている。

 

「イマニは彼の信徒たちに『永生証』を書き渡し、彼らだけが『命の書』に記されるとえている。」

 

イエスが「私を救い主として信じる瞬間に永遠の命を得る」と明確にえられた。新生したクリスチャンは永遠の命を得たのだ。これを悟ることができず、人間が行した「永生証」をもらったため自分が救われたと安心する人々を見るとき、に思える。

 

新生したクリスチャンは霊の救いを受けるが、救われた証は何だろうか? 私たちはどのようにして自分が救われたということが分かるだろうか?

 

聖書によれば、救われたクリスチャンにはいくつかの明白な証が現れる。このような証が現れれば、霊の救いを受けたことが分かる。永生証をもらったとして天国へ行くのではない。聖書がえる、救われたという証を一つずつ調べてみよう。

 

1、自身の罪を悔い改めた経験があれば本物のクリスチャンだ。

 

人間の根本的な罪は、イエス救い主として信じないことだ。人がイエスを信じなかった罪を悔い改めてイエスを信じる時、は彼を、本物のクリスチャンだと認めてくださる。

 

(マルコ 1・14~15) ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 

本文の「悔い改めて福音を信じなさい」という御言葉は「イエス救い主と信じなかった態度をえてイエス救い主と信じなさい」という意味だ。このような悔い改めをした人が、本物のクリスチャンだ。反面、口ではイエスを信じると言いながら、心ではイエスを信じない人は信者だ。

 

2、 でイエス救い主と信じて、口でイエス救い主だと告白すれば本物のクリスチャンである。

 

(ローマ 10・9~10) なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

 

本文に記されたように、本に救われたクリスチャン、すなわち本に永遠の命を得たクリスチャンは、でイエスが自身の罪のために死んだという事を信じて、口でイエス救い主と告白する。声を発することができない患者や障害を持つ者は身振りでイエス救い主と告白すれば良い。サタンがクリスチャンに疑いを入れるので本に救われたクリスチャンも時折、イエス救い主だということを疑う場合もある。だとして彼が救われなかったことではなく、彼の救いが取り消されることでもない。

 

一方、異端である救援派(クウォンパ)は「イエスを信じた日を分からなければ救いを受けてない」と主張する。それは全く聖書のえではない。幼い時イエスを信じたクリスチャンと、教会に通っている間に自身も知らないうちにイエスを信じたクリスチャンは、自身がいつイエスを信じたのかよく分からない場合もある。自らの誕生日を分からなくても親の子供だという事実は変わらない。同じく本に救われたクリスチャンは、自分の救われた日が分からなくても神の子供である

 

3、 イエスを信じた後に化した経験があれば本物のクリスチャンだ。

 

私たちがイエス救い主と信じることは、サタンのしもべ()から神の子供に身分がわることで(ヨハネ 1・12)、死のから命のに移ることで(ヨハネ 5・24)、罪のしもべから義のしもべに身分がわることだ(ローマ6・17~18)。したがって本にイエスを信じた人は自身が十分に自できる化を必ず体することになっている。このような化を体したら間違いなく神の子供だ。

ただ、とても幼い時イエスを信じて、自身の化した経験を記憶できない場合が有り得る。こういう場合には自身が現在、心でイエスを愛して、イエスのために生きることを望むかを点すれば、自身が本物のクリスチャンであることを確信することができる。

本物のクリスチャン、心は燃えていても肉体は弱いので罪を犯すことがあっても、から神を否定することは絶にない。

 

4、 イエスが心におられるのを知れば本物のクリスチャンだ。

 

(第二コリント 13・5) あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか―あなたがたがそれに不適格であれば別です。―

 

イエスが自身の心におられるのをどのように知ることが出るのか? 自分がからイエスを愛するのかを見れば知ることが出る。

 

(第一ペテロ 1・8) あなたがたはイエスキリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 

イエス救い主として愛すれば、イエスがその心の中におられるのだ。サタンがその心の中を支配している人はイエス救い主として愛することはできない。

 

イエスが心の中にいる人は、肉体が弱いので公然とイエス救い主として愛するのを現わすことができない時も、自分自身が心よりイエス救い主として愛しているのを分かる。ある人を愛することになった人が困難な環境のためにその愛を表現できなくても心の奥底では相手を愛しているのと同じだ。使徒ペテロは聖霊を受ける前にユダヤ人たちが怖くて、「私はイエスを知らない」と言ったが(マタイ 26・69~75)、それは彼の本心ではなかった。

 

5、 心より聖なる生活をすることを努めれば本物のクリスチャンだ。

 

に救われたクリスチャンの心の中には聖霊がおられる。聖霊は聖なる方だから、聖霊が心におられる人は必ず心より聖なる生活をすることを努めることになっている。言い換えれば、本に救われた人は必ず聖化を努めることになっている(ガラテヤ 5・17)

 

だが、本物のクリスチャンが必ず常に聖なる生活をする、あるいは、本物のクリスチャンは大きな罪(あるいは多くの罪)を犯さない、大きな罪(あるいは多くの罪)を犯して悔い改めないクリスチャンは本物のクリスチャンではないと、誤解しないようにを付けなければならない

 

本物のクリスチャンの中には肉体が弱くて聖霊を消してしまうので大きな罪を犯す人もいる。極端な例としては、イスラエルのサウロ王やソロモン王、父の妻と同居生活をした信者のように、死ぬ時まで悔い改めが出ない場合もある。このようなクリスチャンも、心より聖なる生活をすることを望む。ただし彼らはからだが弱いので善い行いを実践できないだけだ。イエスはこのようなクリスチャンを次の通り評された。

 

(マタイ 26・40~41) それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、1時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陷らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

 

弟子たちはイエス一緒に祈りたかった。だが、彼らは肉体の眠に勝てなくててしまった。このように本物のクリスチャンも、心は聖なる生活を願っても、肉体の願い通り罪を犯すことがありうる。極端な場合には、父の妻と同居生活をした信者のように未信者よりもっと深刻な罪を犯して悔い改めができない場合もある。

 

もちろん罪をたくさん犯す信者の中には信者が多いだろう。しかし、それにもかかわらず、罪をたくさん犯すクリスチャンの中には本物のクリスチャンがありえる。したがって大きな罪(多くの罪)を犯した人を無条件で信者だと判断してはいけない。

 

一方、肉体の弱さに勝つことができなくて罪を犯してしまうクリスチャンは、この地に住む時罪を犯した分呪いを受けるし、死んだ後には罪を犯した分天国の賞を失う。新生したクリスチャンは、これがどれくらい大きい損かということを必ず知るべきだ。

 

6、 罪を犯す時、神の懲らしめを受けるなられば、本物のクリスチャンだ。

 

クリスチャンが罪を犯す時、神の懲らしめを受けるとすれば、彼は神の子供だ。人間の親が子供を叱るのと同じく、神も必ず神様の子供であるクリスチャンを懲らしめるからだ。

 

(ヘブル 12・8) もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

 

ある人は韓6~70年代に多くの奇跡を起こしたけれど落したムン某牧師とパク某長老の例をあげて(彼らは「自分がイエス(あるいは神)だ」と主張した)、「本物のクリスチャンも彼らのように落して地獄に行くことがありえる」と主張した。だが、この主張は正しい主張ではない。ムン某牧師とパク某長老は本物のクリスチャンではないからだ。どうして分かるかというと、彼らが深刻な罪を犯して落した後にも神の懲らしめを受けなかったからだ。彼らは落した後にも長寿しながら平安に過ごした。

 

反面、アナニアとサッピラは、に嘘をついた罪のために直ちに殺された(使徒 5・1~11)。これは、彼らが本物のクリスチャンだったということの確かな証拠だ。エジプトから脱出したイスラエルの民は、単に不満と文句を言っただけで荒野で死んだ。彼らが本の神の子供だったから厳しい懲らしめを受けたのだ。使徒パウロはコリント人への手紙第一の5章を通して「神は本物のクリスチャンが深刻な罪を犯したら、彼の肉を滅ぼしても彼の霊は救われる」と証言した(第一コリント 5・1~5)

 

ただ、祖先が良い行いをたくさんした場合には、その祖先の子孫は罪を犯しても軽い罰を受ける場合がある。ソロモン王がその例だ。ソロモン王は晩年に偶像崇の罪を犯した(第一列王記 11・4~8)。神はソロモン王を懲らしめた(第一列王記 11・14~33)。しかし神は、ソロモンの父であるダビテの善い行いを考え、ソロモンに若干の災難を下して、彼の息子であるルホボアム王の時代に彼のが分かれる大きな災難を下ろされた。

 

(第一列王記 11・34~35) しかし、わたしは、彼の手から、王国全部は取り上げない。わたしが選び、わたしの命令とおきてとを守ったわたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きているは、彼を君主としておこう。しかし、わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。

 

このように祖先が神様に従順する生活をすれば、子孫がその祝福を受ける。反面、祖先が罪をたくさん犯したら子孫が害を受ける。神は神の子供が罪を犯せば必ず懲らしめる。

 

7、 律法を守ることができないために心の苦痛を受ければ本物のクリスチャンだ。

 

(ローマ 7・22~25) すなわち、私は、なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエスキリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 

本文は使徒パウロの告白だ。彼は、心()が神の律法に仕えているけれど、からだが罪の律法に仕えているので苦しんだ。言い換えれば霊は罪を犯さないけどからだが罪を犯すので苦しみを受けた。これは彼が新生したクリスチャンであることの確かな証拠である。

 

未信者も罪を犯すことで心の苦しみを受ける。だが、彼らは神の律法を守ることができない理由で心の苦しみを受けない。神の子供だけが神の律法を守ることができない理由で心の苦しみを受ける。もし、者が神律法を守ることができない理由で心の苦しみを受けるならば、者は間違いなく神の子供だ。言い換えれば者がある罪を犯して「神の子供である私がこんなことをしてはいけないのに」と思いながら心の苦しみを受けるならば、者は神の子供に違いない。

今まで人が救われたという証を紹介した。読者は、筆者が提示した救いの証考えながら、自身が霊の救いを受けたかどうか点した後に救いの確信を持って神に仕えることをお勧めする。

 

そして読者は、信者の善い行いを救われた証だと勘違いして「落した生活をするクリスチャンは地獄へ行くのだ」という主張をしてはいけない。

礼拝に熱心に加すること、金を捧げること、熱心に教会の奉仕をすること、聖霊の力が現れることなどは救われたという証にはなれない。こういうものは救われることが出なかった人でも出来るものだ。が未信者に特別な力を与える場合もある。

 

クリスチャンの中で地獄へ行く人が多いか少ないかは、ただ神だけがご存知である。落した生活をするクリスチャンが多くても、彼ら大部分が本物のクリスチャンである可能性があるのだ。したがって読者が新生したクリスチャンであれば、「落したクリスチャンは天国へ行けない」という主張に惑わされて地獄の恐怖に震えないようにしなければならない。そして読者の中で落した生活をするクリスチャンがいれば、神の恐ろしい御怒りを受けて肉体が死に、天国での全ての賞を奪われる前にぜひ悔い改めなければならない。