マタイ 15:10~20             

イエスの弟子たちが汚れた手で食事をしているのをファリサイ派の指導者たちに見とがめられました

食前の手洗いは、ユダヤ人にとって単なる衛生問題ではなく、極めて宗教的な問題でありました。

つまり、ユダヤ教の根幹としての浄・不浄の問題がそこにありました。

彼らは律法を守ることによって神様の前で清い人になると思いました。

イエス様は、人は律法を守ることではなく、清い心、新しい心を持つことによって清くなると教えています。

そして、その清いこころを持つことも私たちの力ではありません。
もし、私たちの力で、聖書に記された律法の言葉を守ることができると思うなら、そこには、律法主義のもたらす大きな危険性が存在しています。
なぜなら、本質的に、私たち人間は、律法の言葉を守り通すことはできないのです。

守り通すことができないはずなのに、それが守れたと思い込んでいるということは、どこかに、認識のズレが生じているか、あるいは、神の言葉を無視しているはずなのです。
ガラテヤ3:10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。

「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
3:11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。

なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
私たちを救うために、十字架で死なれた主イエス様によって、私たちはあらゆる律法から解放されました。

神様を賛美します。